佐久間盛政 辞世の句です。

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戦国武将 辞世の句

信長の家臣として活躍し、その猛将ぶりから“鬼玄蕃”と渾名された武将が佐久間盛政です。
天文23年(1554年)尾張に生まれた盛政は永禄11年(1568年)に初陣すると越前手筒山城の戦い、野洲河原の戦い、槇島城の戦いに参陣し、180?を超える恵まれた体格から武功を重ねて行きました。
天正3年(1575年)には柴田勝家のもとで先鋒を務め、その働き振りから信長直々に賞賛されました。
天正5年(1577年)には加賀国に派遣され上杉謙信の抑えとして駐屯しました。
天正8年(1580年)には加賀一向一揆平定により加賀国の統治を任され加賀金山城の城主となります。
天正9年(1581年)上杉景勝が加賀に侵攻した際には舟岡城を攻め落とされましたが、盛政の巧みな采配によって上杉軍を撃退しました。
天正10年(1582年)本能寺の変時には柴田勝家と共に北陸攻めに従軍しており、身動きが取れなかったため明智光秀を討つことは叶いませんでした。
信長死後の織田家の方針を策定する清州会議で盛政と柴田勝家は露骨な織田家から実権を奪い取る姿勢を見せる羽柴秀吉と鋭く対立します。
天正11年(1583年)ついに柴田勝家は羽柴秀吉との武力衝突にいたりました。(賤ヶ岳の戦い)柴田軍に属した盛政は独自の判断に基づき羽柴軍の中川清秀を急襲し討ち取ることに成功しました。
この行動により柴田軍は緒戦段階で優位に立つことになります。さらに盛政は桑山重晴が守備する羽柴軍の賤ヶ岳砦を攻撃して陥落寸前に追い込みます。
しかし丹羽長秀が羽柴軍に合流し賤ヶ岳砦の救援に駆けつけたために盛政は砦の攻略を諦めざるを得なくなり、頼みとした前田利家が全く動かなかったことも響いて勝家は秀吉に敗北しました。
盛政は再起をはかり落ち延びますがその途上で羽柴軍に捕らえられます。秀吉は戦上手の盛政の能力を高く買っており、自身の家臣へと誘いましたが盛政は拒否を貫いたため止む無く切腹を申付けました。しかし、盛政は「合戦に敗れた武将が敵将に名誉である切腹を賜る事は恥である」と言い放ち、あくまで死罪を希望した事から盛政は京都・宇治で斬首されました。享年三十歳でした。秀吉は刑に臨んでも武士として堂々とした盛政の死を最後まで惜しんだと云われています。
佐久間盛政 辞世の句です。

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世の中をめぐりもはてぬ小車は 火宅のかどをいづるなりけり

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