柴田勝家 辞世の句です。

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戦国武将 辞世の句

織田信長の家臣で、織田氏の拡大に尽力した猛将です。信長の敵として、そして後継者の一人として戦い続け、ちょうど新しい時代の移り変わりに生きました。

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出自

勝家以前の柴田氏の資料は少なく、父の名や出生年すらも不明です。1520年代の生まれと考えられています。若い頃から織田信秀に仕え、軍功を挙げたと思われます。1551年に信秀が亡くなったとき、信行の家老として遇されており、三十になる前には重臣になっていたことになります。

信長以前

信行の家臣時代、勝家は信長と戦っています。
その頃の尾張は美濃の斉藤氏、駿河の今川氏などの強国と敵対していたため、そんな状況で尾張一国が分裂していたのでは持ちこたえられないという危機感がありました。
後継者の信長は、うつけ者と評判だったため、評判のよい信行こそが信秀の後継者にふさわしいという動きがありました。
そうして信長派と信行派に分かれた織田家中は、1556年に稲生の戦いを起こします。戦力的には劣勢だった信長が勝利。
信行や勝家らは許されて降伏しました。翌年、信行が謀反を起こそうと画策した際には、勝家が信長に知らせたことで信行は謀殺され、遺児である津田信澄は勝家が引き取りました。

信長の家臣として

鬼柴田の異名を取るほどの勇猛な働きで知られていますが、勝家が活躍をはじめるのは上洛を待たねばなりません。
意外なことに、桶狭間の合戦にも、斉藤氏との戦いにも、勝家は名を連ねていません。
桶狭間の戦いは、お互いに布陣してからの会戦ではない突発的な戦いだったため、たまたまその場に居合わせなかったともいえます。
足利義昭を奉じての上洛作戦以降、勝家は休む間もなく各地を転戦しはじめます。
信長の家臣にはよくある話ですが、本能寺に至るまで、戦わなかった年が見当たらないほどに戦い続けています。
その中で勝家は軍功を挙げ続け、主に上杉家との戦いを担当して、北陸方面の司令官に任じられました。
所領は、越前北の庄城の四十九万石。
後に宿敵として相まみえる羽柴秀吉とは馬が合わなかったようで、たびたび衝突しています。
中でも上杉謙信を相手取った戦いでは、軍議で意見が合わず、秀吉が無断で撤退してしまうという事件が起きました。
ただでさえ越後の龍の異名を取る謙信のこと、足並みも揃えずに防げる相手ではなく、このときは七尾城を奪われています。織田氏にとって幸いしたのは、それから程なくして謙信が病没してくれたことでしょうか。
勝家は織田家中の筆頭家老として権威を保持しましたが、明智光秀や、羽柴秀吉など、手強いライバルもまた地位を高め、主君の覚えもよく出世を続けていきました。
そんな中で突如として起きたのが、1582年の本能寺の変です。

本能寺の変後

光秀が信長を討ったとき、勝家は城攻めの最中でした。変があったことを知らずに過ごしている数日のうちに城を落としました。
知らせを受けた勝家は直ちに光秀討伐の兵を起こそうとはしたものの、事件は上杉方の知るところともなり、上杉方が干渉を強め、対応に時を奪われ、やっと兵を動かしたときにはすでに秀吉が光秀を討ち果たしていました。
後日、清洲会議が開かれました。
織田家の新しい主君を決めるため。そして、領土の分配のため。名目上は、合議によって新しい織田家中の秩序を形成するものでしたが、結果的には新たな権力闘争のスタートライン設定になりました。
会議によって織田家の当主は、信長の嫡男信忠の子、三法師と定まり、重臣たちの所領も決まりました。
秀吉は新しく山城を得る代わりに、旧領の近江領を勝家に譲るという形で決着しましたが、その後、会議で決めたのは何だったのかという勢いで奪い合いを開始。
勝家は伊勢の滝川一益や、美濃の織田信孝と組んで秀吉に対抗し、秀吉もまた年内には譲ったばかりの旧領長浜城主を調略して寝返らせました。
両者の本格的な戦いに至るまでに時間は要さず、有名な賤ヶ岳の戦いは、清洲会議から一年もたっていません。
賤ヶ岳砦を争ったこの戦いは激戦となりましたが、勝家の家臣であった前田利家の戦線離脱が決定打となって、秀吉の勝利に終わりました。
ここで両者の大勢は決し、北の庄城も包囲された勝家は自害。妻であった信長の妹、お市の方共々、およそ八十名あまりが供をしました。このとき勝家は、およそ六十歳くらいだったと思われます。
柴田勝家 辞世の句です。

夏の夜の 夢路はかなき 後の名を 雲井にあげよ 山ほととぎす

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