島津義弘 辞世の句です。

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戦国武将 辞世の句

薩摩国守護であった島津貴久の次男として誕生しました。母は入来院重聡の娘。 祖父は忠良(日新公)。のちに兄・義久、弟・歳久、末弟・家久と合わせて「島津四兄弟」 と称されます。兄の義久が家督を継ぎ、島津家十六代当主となると兄の補佐役となりました。
猛将と謳われた義弘の初陣
蒲生氏の支配下であった岩剣城の合戦にて、陣中の軍兵を率い、足を止めず駆け入りて方々に追い散らし、数千の敵を討ち滅ぼし、大利を得たようです。島津軍は、この合戦において日本で初めて種子島鉄砲を本格的に使用したと言われています。 戦功により、義弘は岩剣城の城主に任じられました。その後も帖佐城、 蒲生氏の本拠地である蒲生城を攻略しました。
木崎原合戦
伊東義祐と島津義弘の間でおこなわれた木崎原合戦では伊東軍約三千人に対し、島津軍約三百人でしたが 「釣り野伏せ」という戦術で勝利します。九州の桶狭間とも呼ばれ、島津家の命運を分けた重要な合戦でした。
耳川の戦い
九州制覇を狙う豊後国の大友宗麟と薩摩国の島津義久が、日向高城川原を主戦場として激突した合戦です。大友宗麟・義統は宿敵・島津氏との決着をつけるため三万とも四万ともいわれる大軍を率いて日向への遠征を決定しました。
島津軍は正面から島津義弘、側面から島津義久、さらに高城から島津家久が大友軍に攻撃を行います。三方から攻撃を受けた大友軍は、支え切ることができず壊滅的な打撃を受け敗走。今まで幾度となく大友家の窮地を救ってきた人物や、数々の有力家臣がこの戦いでその命を散らす事になってしまいます。逃げる大友軍を追撃する島津勢は「耳川」で大友軍を捕捉し、大友方の戦死者は四千余り、島津軍の大勝利となりました。
根白坂の戦い
耳川の戦いに敗れた大友氏は、豊前・豊後と筑前の一部を領するのみで、逼塞状態に追い込まれていきました。そうした状況で大友宗麟は当時天下を手中にしていた豊臣秀吉に拝謁します。壮麗な大坂城を目の当たりにして、黄金の茶室で接待まで受けた宗麟に秀吉は出兵を約束します。
やがて、秀吉の九州征伐が始められることとなました。秀吉の軍が九州に向けて進発を開始します。十万の九州平定軍と戦いで、義弘は自ら敵軍に斬り込みましたが島津軍は敗れ、兄・義久は、 薩摩に戻り剃髪して降伏しました。 降伏した後も義弘は戦うことを主張しましたが、兄の説得により降伏します。
義弘は秀吉から大隅一国を安堵されて大名となりました。また、兄から家督を譲られ島津家第十七代当主となりました。しかし、名目上の事であったようで、島津義久はその後も島津氏の政治・軍事の実権を掌握しています。
関ヶ原の戦い
義弘は西軍につきました。小早川秀秋の寝返りの後、島津軍千五百人は退路を敵陣に阻まれ、捨て奸と言われる戦術を取りました。その結果、多くの兵が犠牲になりましたが家康から追撃中止の命が出されたこともあり、義弘は敵陣の中を突破することができました。
義弘は海路で薩摩へ戻り桜島に蟄居。その後、井伊直政や本多正信による家康への取り成しのおかげで赦免されました。
義弘は大隅の加治木に隠居します。八十五歳で亡くなりました。当時、殉死は禁じられていましたが、義弘の家臣十三名が殉死しました。
鬼島津と恐れられた島津義弘でしたが、大きな戦いの後には、六地蔵塔を建立し、両軍の戦死者を供養するという慈悲深い一面がありました。
義弘は家臣をとても大切にしたこともよく知られています。義弘は、部下の子供に会うのを楽しみにして、一人一人に言葉をかけたそうです。子供の父親の事を全部記憶していて、子ども達にそれを告げています。
「おまえの父親は、あの時こういう手柄を立てた。しかしおまえの顔を見ると、将来、必ず父を越えることがよくわかる。頑張れ」
逆に、あまり手柄を立てなかった者の部下の子供に対しては
「おまえの父は天の運がなく、あの時は思うように手柄が立てられなかった。しかし、おまえの顔を見ていると、父の分まで手柄を立てるような顔をしている。頑張れ」
こういう言葉をかける義弘に、子供はもちろんのことその親まで感動したといいます。義弘は常に言っていました。
「薩南三カ国を領有できるのは全部、部下の働きによる」
人情家で直属の部下達には非常に愛されていたと考えられます。部下の子供達、全員に声をかけたこと。その父親たちの事を全部記憶していたこと。それぞれが納得して、やる気を出せるような励ましの言葉をかけたこと。
一時的には細やかな心配りはできます。そのことを長い間やり通すことは難しいことです。常にあらゆる角度から、己を磨いていたのではないでしょうか。
島津義弘 辞世の句です。

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春秋の 花も紅葉も とどまらず 人も空しき 関路なりけり

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