竜造寺隆信 辞世の句です。

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戦国武将 辞世の句

冷酷非情で、「肥前の熊」の異名をもって周辺諸国に恐れられた竜造寺隆信。
大友、島津と並んで、九州の三強のひとつとして有名になりました。
頭脳明晰で、力も強かったと云われていますが、肥満体で、隆信を乗せた輿は五人がかりでなければ運べなかったとも云われています。
一代で名を馳せた隆信は1529年、竜造寺の分家(水ケ江城)の当主である竜造寺周家の嫡男として生まれ、幼少期は宝琳院に預けられて修行しています。
十四、十五歳にして二十歳の知力の持ち主だったとも云われています。曾祖父の竜造寺家兼は早くからその才能を見抜いていたようです。
1545年、主家である少弐氏から謀反の疑いをかけられます。少弐氏の重臣の馬場頼周に攻められて祖父である竜造寺家純、父の竜造寺周家を殺されます。
当時は胤信と名乗っていた隆信は、曾祖父の家兼に連れられて肥前を脱出し、肥後の蒲池鑑盛の下を訪ねます。

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■本家竜造寺の家督を継ぐ

1546年にはその蒲池鑑盛の援助を受けて馬場頼周を討ち、隆信は水ケ江竜造寺の家督を継ぐことになりました。
隆信はこの頃はまだ国人衆のひとりに過ぎませんでした。
竜造寺家の本家当主である竜造寺胤栄に従い、1547年には勢福寺から主家である少弐冬尚を追放しています。
その後、胤栄が亡くなり、その未亡人を娶ることで隆信は本家の家督も継ぐことになります。

■東肥前の統一

しかしそのやり方に反発する家臣も多かったことから、その封じ込めのために隆信は大内義隆と外交を結び、その力を背景にしていきます。
1550年には山城守を賜り、名も一字拝領し胤信から隆胤、そして隆信へと変えていきました。
1551年にその大内義隆が配下の陶晴賢の謀反で戦死し、隆信も配下である土橋栄益に掲げられた竜造寺鑑重に攻められて逃亡。再び肥後の蒲池鑑盛を頼ります。隆信は蒲池鑑盛の助力もあり、小田政光を恭順させ、土橋栄益を処刑しました。
1559年には少弐冬尚を自害に追い込み、東肥前を統一します。

■大友宗麟との和睦

周辺の群雄たちはその成長ぶりに脅威を抱くようになります。そして大友宗麟が動き出します。このときは毛利元就が豊前を攻め、大友宗麟は一時撤退します。
毛利元就を破った大友宗麟は1570年に三千の兵を率いる大友親貞に肥前を攻め込ませますが、竜造寺軍の鍋島直茂の奇襲により敗北。竜造寺隆信は大友氏と有利な和睦を結ぶことに成功します。
その後も大友氏の干渉を受けながらも周辺の豪族を吸収し、竜造寺家は確実に勢力を高めました。
1578年に耳川の戦いで大友氏が島津氏に敗北してからは、完全に独立し、積極的に大友領土の切り崩しを行っています。

■肥前の統一と隠居

隆信は1577年には大村氏を、1578年には有馬氏を降し、ついに肥前を統一します。
1580年には隠居し、家督を息子の竜造寺政家に譲りますが、実際に政治や戦争の指揮をとったままでした。その頃には肥前の他、筑前や筑後、豊前や肥後などを勢力下におき、完全に九州は島津と竜造寺の二強となります。
そして1584年、有馬晴信が隆信を裏切り離反し、島津氏に付くことから、有馬氏を攻める竜造寺氏と、有馬氏を救おうとする島津氏の間でついに戦が始まります。

■沖田畷の敗戦と竜造寺隆信の討ち死

1584年の沖田畷の戦いです。
有馬氏、島津氏の連合軍六千に対し、竜造寺軍は二万五千と兵力では圧倒していました。
島津氏は大友氏の勢力などを警戒しなければならなかったので、兵を余分には割けなかったと云われています。
畷は湿地帯の中に伸びた小道を指し、兵力で勝る竜造寺軍の力攻めに対して島津軍は巧みに機動力を使えぬ場所に誘導し、これを弓矢や銃を使用して撃破しました。
深田にはまり身動きの取れなくなる竜造寺軍ですが、これは前線に偵察にきた隆信の家臣が勇んで力攻めを勝手に指示したためだと云われています。
この戦いで二万五千の竜造寺軍が敗北するだけでなく、総大将である隆信が、島津軍の川上忠堅に首を討たれてしまいます。また竜造寺四天王の成松信勝や百武兼堅などが戦死。竜造寺氏は大きく衰退していきます。退却した竜造寺氏はやがて配下の鍋島氏に家を乗っ取られることになりました。
しかし一代でここまで竜造寺氏の勢力を拡大した隆信の器量も計り知れないものがあります。戦国の世の習いを巧みに操った竜造寺隆信。沖田畷の戦いの失敗さえなければ九州の覇者は島津ではなく、竜造寺だったかもしれません。
竜造寺隆信 辞世の句です。

紅炉上 一点の雪

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