北条氏政 辞世の句です。

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戦国武将 辞世の句

北条氏政は後北条氏の四代目の当主です。
1538年(天文7年)に生まれた北条氏康の次男。兄が夭折したことにより北条新九郎氏政と名乗って世子となっています。幼名は松千代丸。
氏政の正室は武田信玄の娘の黄梅院であり、1554年に結婚しています(武田氏と今川氏との間で甲相駿三国同盟が結ばれたことによる)。氏政は十七歳でした。
1559年には父が隠居したことによって二十二歳で家督を譲り受けます。ただ、父の氏康が健在のときは氏政と共に北条家を盛り立てていました。
家督を相続してから、最初に氏政が行ったことは代替わりの検地だったといます。
1561年には上杉謙信が大軍により小田原城に攻め入ってきますが、盟友でもある武田氏の援助もあり、それを防ぎます。氏政は父・氏康が主導する中で籠城戦において対抗しました。
越後に謙信が戻った後に、第四次川中島の戦いが勃発。謙信と信玄が合戦史上もっとも多くの戦死者をだすほど激しい戦いになります。
その後、氏政は信玄と共に北関東に侵略。戦をしながら上杉氏に奪われた領土を段々と奪い返していきます。
1568年になると武田信玄が駿河へと侵攻をしたことがきっかけとなり、三国同盟が破綻してしまい、武田氏と関係が悪化したことから、氏政は仲良く暮らしていた正室の黄梅院と離縁することとなります。
三十二歳になった1569年には、上杉謙信と相越同盟を結びました。そして、武田信玄が小田原城を攻め入ってきます。しかし、氏政は父と共に籠城戦を行い、武田軍を撃破しました。
氏政が三十四歳となった1571年には、父・氏康が逝去。さらに、この年には上杉謙信と結んでいた相越同盟を廃棄して武田信玄と同盟を結びます。
1572年には、三方ヶ原の戦において武田軍に援軍を送っています。織田と徳川の連合軍と戦い、勝利していますが、援軍として送られた諸足軽衆の大藤秀信が戦死を遂げました。
1578年には上杉謙信が亡くなったことで、上杉氏で御館の乱という後継者争いが勃発しました。氏政は、上杉影虎(氏政の実弟であり、上杉家に養子になり北条家を出ていた)を助けるために、同盟を結んでいた武田勝頼に援軍を依頼しています。
ところが、勝頼は北条氏の血を引いている影虎が上杉氏を継ぐことになれば武田氏の立場が弱まってしまうことを懸念したことなどを理由として、景勝(景虎の儀兄弟であり家督争いの相手でもある)と和睦をしたことにより、景虎は味方を失い自害してしまいました。
このことをきっかけとして、氏政は武田氏との同盟を破棄しています。
1580年には氏政は四十三歳となっており、嫡男である氏直に家督を譲っています。そして、その二年後には天目山の戦において織田信長や徳川家康に共鳴をして関東口より武田攻めに挑みました。
その後、織田信長は本能寺の変において自害。これが契機となり、氏直に滝川一益(信長の関東方面司令官であった)を上野国に攻めるように促し、勝利を収めています。これを神流川の戦と言います。
それから信濃国へと進んでいき、真田氏などを取りこみました。
徳川家康も信濃国を狙っていたため争いになりましたが、和解を果たし、家康の娘である督姫を氏政の嫡男・氏直の嫁に据えました。
そうして、甲斐や信濃国は徳川氏の領となり、北条領は上野国となっています。このことで、相模国や伊豆国、武蔵国、そして下野国、上野国、さらに下総国といった、合わせて二百四十万石の領主となりました。
1588年には、関白の豊臣秀吉から上洛するようにとの命が下されますが、それを氏政は拒んでいます。
その二年後の1590年に、秀吉の率いる二十二万の大軍を相手に小田原城で籠城して抵抗しましたが、支城を落とされていき、徳川家康や伊達正宗などを頼りと考えていたものの、思う様にいかず降伏をしました。
氏直は家康の婿になることもあり高野山に追われたものの、命は助けられました。しかし、氏政は弟の氏照と共に責任を負うために切腹。戦国大名の小田原北条氏は滅びました。五十三歳でした。
北条氏政 辞世の句です。

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「我身今 消ゆとやいかに おもふへき 空よりきたり 空に帰れば」
「雨雲の おほえる月も 胸の霧も はらいにけりな 秋の夕風」

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