斉藤道三 辞世の句です。

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戦国武将 辞世の句
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捨ててだに この世のほかは なき物を いづくかつひの すみかなりけむ

斉藤道三は美濃の国の戦国大名。織田信長の義理の父。道三は一代で美濃の国取りをしたと言うのが通説であるが、最近の研究によると道三の父と道三という二代に渡る努力が効を奏して美濃を治めるようになったという説もある。1494年頃生誕。父は松波庄五郎、母は不詳。下剋上で成りあがった悪者のイメージがあるが、当時の時代背景からすると、能力の無い主君は家臣、領民を不幸にする。

能力がある武士が大名となって国を治めるのは良い事である。毒殺、虐殺、追放された人間には気の毒ではあるが、家臣、領民には幸せを運ぶ行為である。そういう意味で解釈すれば斉藤道三は美濃の名君と言えるでしょう。

◆商人から武士の道へ

京都で僧職にあった道三が美濃へ出て、油商人として財をなし長井家に仕官した。と伝えられているが、本当にそうであったのだろうか?僧職から油商人、そして長井家に仕官したところまでは父の「松波庄五郎」ではなかろうか。道三の油商人としての姿をイメージできないのである。道三は父の松波庄五郎が長井家に仕官した後を受けて、出世したように思えてならないのである。たった一代で武士以外から大名になったのは秀吉くらいであり、やはり大名となるには長い年月を要すると考えた方が自然である。親子二代にわたる「美濃の国取物語」であろう。

◆土岐氏に取り入り主君を追放、美濃の国を手に入れる

道三は持ち前の才覚と武芸の達人として頭角を現し、美濃を支配していた土岐家に取り入ることができた。特に土岐家当主の次男である土岐頼芸に寵愛されるようになる。頼芸が家督相続の争いに敗れた後、策を弄して兄の政頼を急襲し、越前に追放する。そして頼芸の信任を得ていた宿敵、長井長弘を殺害する。1538年守護代の斉藤利良が死去すると、斉藤新九郎と名乗る。ところが道三は頼芸の弟の頼満を毒殺するに至り頼芸との対立が決定的となり、ついに1552年、頼芸の大桑城を攻め頼芸を尾張に追放し、ついに美濃一国を手に入れた。

◆政略結婚で娘を信長に嫁がせる

1548年、道三は敵対していた織田信秀(信長の父)と和睦し、娘(濃姫)を信長に嫁がせる。当時大名家に生れた女性は家を守る為の道具であった。すなわち政略結婚の為の道具である。道三も美濃の南側で勢力を拡大しつつある尾張の織田家を脅威と感じていたのであろう。大事な娘を嫁がせる決断をする。TVドラマでは嫁がせる娘(濃姫)に短刀を渡し婿殿(信長)が「うつけ」ならこの短刀で刺し殺せ!と言ったが、濃姫は、もしかするとこの短刀で父上を刺し殺すかもしれません、と答えたことになっているが、実際は違っていたと推測する。その理由は、姻戚関係をもって「同盟」関係が成り立つので、それを壊す事は御法度であるから、ありえないことである。さらに女性が嫁げば実家よりも嫁ぎ先を大切にするのが当時の慣わしであった。信長の妹、お市の方と浅井長政の実例を見れば明らかである。そしてまた、嫁ぎ先で「婿殿」を刺し殺したと言う事例はないのである。

◆信長との信頼関係、正徳寺会見

1553年道三は信長に会見を申し入れる。濃姫が嫁いでから5年後のことである。この時の信長と道三の力関係は、明らかに道三の方が上である。余裕ができた道三が「信長」とはどのような人物なのかを見極める為に、道三から提案した会見であった。会見場の正徳寺は由緒正しい寺であり、二人の対面にふさわしい場所であったと言える。
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巷間伝えられるところでは、道三が正徳寺にやってくる信長を見ようと密かに町屋に隠れていた。そして信長の「うつけ」姿を見て、やはり婿殿は「うつけ」であったかと思い、いざ会見場に現れた「正装姿」の信長を見て驚くと言う場面があるが、実際はそうではなかったであろうと推測する。
道三の目的は信長と直接会って話し合えば器量が分かる事であるから、わざわざ服装を確認する意味はないのである。人は直接会って話しあえば相手の力量は直ぐに分かる。だから正徳寺の会見は「面白おかしく」後世の人が作った話のように思えてならない。信長ほどの逸材ならば「尾ひれが付く」話は聞いて面白いから、作り話になり易いのだ。ただ間違いなく言えることは、この会見で道三は信長の非凡さを見抜いている。お互いにとってたいへん有益な会見であったことは事実である。

◆楽市楽座は道三の発案、信長の専売特許ではありません

楽市楽座と言えば信長の顔を思い浮かべますが、信長の専売特許ではありません。各地の大名(六角氏、今川氏など)が自国内で行っていた制度であり、道三も美濃の国を発展させる目的で楽市楽座を取り入れている。楽市楽座は現代風に言うと「市場開放、経済特区」である。信長は舅の道三を見習って「楽市楽座」は自国の産業振興には欠かせないと判断して取り入れたのであろう。

◆嫡男の斉藤義龍に討たれて戦死す

長良川の戦い、1556年嫡男、義龍との戦い。多勢(義龍軍17,500)に無勢(道三側、2,700)、奮戦するも虚しく、敗戦。信長の援軍間に合わず戦死する。享年六十三歳。戦死する前に、美濃は信長に任せると言う遺言を託す。嫡男の義龍ではなく娘婿(信長)に託すると言う事は、いかに道三が信長を信頼していたか、それを物語る確かな証拠である。道三にとっては波乱万丈、満足できる人生であったと推測する。(奈良の大仏様)

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