松永久秀 辞世の句です。

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戦国武将 辞世の句

乱世の梟雄として有名な、戦国時代の大悪人として知られています。善良だったかまでは定かではありませんが、作られた人物象で語られていることも多いのも事実です。

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出自

1510年頃の生まれとされていますが、資料に名前の出てくる1540年代までの記録は、ほとんどわかっていません。おそらく畿内の人物だったと思われますが、それ以上のことは不明です。

三好長慶の下での久秀

久秀は、1540年頃から、長慶の家臣として名前が見られ始めます。この頃は右筆という書記官でした。
そのため、1540年頃の資料から、三好家の発給文書に久秀の名前が見られるようになります。
しかし右筆も完全な書記の仕事だけをしていたとは限らず、久秀はすぐに戦場でも名前を見かけるようになりますので、すぐに才能を見いだされたか、書記だけの担当ではなかったかということになります。
長慶の下では軍事から政治に至るまで信任を得て任されていました。1550年頃には後の権大納言、山科言継との交渉にも久秀が当てられており、後には長慶の娘を娶っています。
時の将軍であった足利義輝との交渉にも久秀が任されており、三好家と足利家の連絡役として、義輝の部下として働くようなこともありました。
そればかりではなく、幾多もの合戦にも名を連ね、連戦連勝すべて勝利という超人的な記録を残しているわけではありませんが、武人として軍略家として非常に高い才能を持っていたことは間違いありません。
その政治から軍事に至るまでありあまる才能をいかし、久秀は三好家の一門衆に匹敵するほどの権力を持つに至りました。
一説によればこの時期、久秀は三好家の実権を完全に掌握するべく、長慶の弟を讒言によって死なせ、長慶の意気をくじいたともいわれています。
長慶の嫡男義興をも暗殺したというような話もありますが、こういった逸話のせいで、大悪党としての松永久秀というイメージができあがったと思われます。

長慶の死後

長慶が病死し、三好家の権力が宙に浮きました。名目上の後継者は三好義継でしたが、実権は三好三人衆と久秀が手中にしていました。
そして邪魔な義輝を排除し、傀儡として足利義栄を将軍にする計画の下、三好三人衆によって義輝暗殺が実行されました。無関係な立場ではありませんでしたが、どの程度計画に加わっていたかは不明です。実行犯の一人である松永久通は久秀の後継者であり、すでに松永家の家督を継いでいます。
実権は久秀にありましたので、そのような大事を久通が勝手にやったとも考えにくいものがありますが、久秀が義昭に送った書状では義昭の身の安全は保証されていました。首謀者たちが義輝共々、周辺人物も巻き込んでいったのと比べると、ずいぶん態度に違いがあり、久秀は直接的には関係していなかった可能性も示唆されています。
長慶の死後三好家は権力争いに終始し、正当後継者である義継を中心に、三好三人衆が優勢になったり久秀が優勢になったりとを繰り返しました。
最終的には久秀側は義継という名分を抱えてはいるものの、劣勢を強いられていました。

織田信長の下での久秀

1568年、信長は足利義昭を掲げて上洛を果たしました。
久秀は義継とともに信長に降伏し、大和一国を任されました。このとき、義昭にとっては久秀たちは兄の仇であったため、降伏に抗議したといいます。
この後の久秀は、織田家の援軍の力もあって、大和に領地を広げていきます。
1572年になると武田信玄の上洛に呼応するかのように反旗を翻し、信長に対して謀反を起こします。しかし、それまでには金ケ崎崩れにおける撤退を助けたというような資料もあります。
「隙あらば裏切る」人物のように語られていることもありますが、これは大げさというものでしょう。
足利義昭とともに起こした謀反は、程なくして鎮圧されます。信玄が病死し、義昭は降伏、義継も自害に追い込まれ、久秀も降伏しました。このとき信長は、久秀の降伏を許したばかりか、そのまま大和の領主として据え置いています。

最期

1577年、久秀は石山本願寺攻めに参加していましたが、突如として離脱。信貴山城に籠もって再び謀反を起こしました。理由を尋ねにいったという織田側の使者を追い返したといわれており、なぜ反乱を起こしたのかは不明です。
少なくとも、今度は久秀は生き延びるつもりもなく、自分の首も、愛した茶釜であった平蜘蛛も、信長の目にさらすつもりもありませんでした。
最期は平蜘蛛をたたき割り、城に火をかけて自害したといわれています。
平蜘蛛に火薬を詰めて爆死したともいわれています。
松永久秀 辞世の句です。

平蜘蛛の釜と我らの首と2つは信長公にお目にかけようとは思わぬ、鉄砲の薬で粉々に打ち壊すことにする

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