武田義信 辞世の句です。

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戦国武将 辞世の句

武田信玄の長男であり、後継者として期待されていました。しかし、桶狭間の合戦で今川義元が戦死したことで、人生が一変してしまいました。

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出自

1538年に、武田信玄の子として生まれました。
武田氏は、関東の有力勢力と難しい関係にありました。信玄の父信虎の代、小田原城を拠点とした後北条氏と敵対し、その同盟者でもあった今川氏ともたびたび合戦を繰り返していました。
この関係が変化したのが1536年。今川氏の当主が没し、お家騒動の後に今川義元が後継者となる頃から、武田氏と今川氏は同盟関係を結びました。両氏はこの同盟を重視し、共に北条氏と戦うなどして共闘を維持しました。
その後、武田、今川、北条氏を取り巻く外交情勢はさらに複雑化していきます。そこで、今川氏の太原雪斎によって三国同盟が提案され、三国はそれぞれに婚姻同盟を結びました。
その一つとして、今川義元の娘が、義信に嫁いだのです。この娘の母は信虎の娘でしたので、義信とその妻はいとこということになります。

義信の活躍

1554年、十代半ばで初陣を果たした義信は勝利を収め、城を落とし、敗残兵を掃討するなどの活躍を見せています。
特に、越後上杉氏との川中島の合戦では、有名な第四次会戦において功を上げたといわれています。五度に及んだ川中島の合戦ですが、もっとも激しいものとなったこの戦いで、八百の兵を率いて奇襲をかけ、上杉謙信の本隊に大きな打撃を与えたとされています。
この時期、義信の功績を示す資料は多くはありませんが、後に廃嫡される遠因となるような事件も見当たりません。義信が信玄の後継者の器ではなかったというような、義信の資質を疑わせるようなものはないようです。

桶狭間の合戦の影響

1560年、桶狭間の合戦により、織田信長によって今川義元が討ち取られました。この一件により、織田・今川氏を中心として、外交関係が一変していきます。両氏の間で揺れていた松平氏は織田氏の忠実な同盟者となりましたし、美濃の斎藤義龍の急死によって信長は美濃を攻略しました。
駿河・遠江を治める今川氏では内紛が続き、統制が取れなくなっていました。
ここで信玄は、今川氏との同盟を破棄し、今川氏の領地を奪い取ることを望みました。しかし、武田氏と今川氏は同盟関係にあります。その関係の証が、義信でした。
義信は、父が今川氏との関係を解消し、妻の実家に攻め込むことに反対したようです。義信に味方する武田家臣もあり、中でも宿老として多大な功績を収めてきた飯富虎昌がいました。
虎昌達は信玄を暗殺する計画を立てました。その密談が虎昌の弟によって暴露され、首謀者達は捕らえられ、処分されるに至ったのです。
そして義信は幽閉され、二年後に亡くなりました。

後継者の交代

義信が廃嫡されたことで、信玄には新しい後継者が必要となりました。そして選ばれたのが、諏訪氏を継いでいた勝頼でした。
勝頼は信玄の四男で、義信以外にも兄が二人いました。しかし次兄は盲目であったため、世継ぎには相応しくないとされ、三男は幼くして亡くなっていたことで、勝頼が指名されました。
信玄は信長と同盟し、南や東に目を向けることを計画していたと見られています。そのために勝頼の正室には、信長の養女をもらいました。
しかし結局は足利義昭による要請に応じ、信長包囲網の一翼を担うことになります。そして上洛の途上で信玄が没し、後を継いだ勝頼が長篠の戦いで決定的敗北を喫したことで、武田氏の命運は尽きていきました。
歴史に「もしも~だったら」はないと言われますが、やはり考えてしまうものです。信玄の寿命を考えれば、どうあっても信玄が天下人になることはあり得ません。では、もし義信を廃嫡せず、今川・北条氏との同盟関係を保持していたら、武田氏は豊臣政権の宿老となれたのではないか、と。
事実は不明ですが、義信の廃嫡は、武田氏にとっても大きな転換期だったことは間違いないと思われます。

武田義信 辞世の句です。

雲もなく 晴れたる空の 月かげに よるとはみえぬ 瀧の白糸

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