筒井順慶 辞世の句です。

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戦国武将 辞世の句

二歳にして当主となりました。このような場合外部からだけでなく、内部からも攻撃を受けるのが常ですが、幸いにして順慶は無事に成長を待たれました。

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誕生から家督相続まで

1549年に、父順昭の下で生まれたばかりでした。順昭は大和における勢力を確立した偉大な人物であり、当時勢力を広げていた三好長慶にしても見過ごせない力を持っていました。長慶は大和の動向を監視させるために腹心の松永久秀を送り込んでいましたので、順昭の突然の病死はつけ込まれる危険がありました。
そこで順昭は策を施し、影武者を立てて自らの死を隠させたのです。その間に順慶を当主として、叔父の順政らによる統率を確立し、筒井氏は窮地を脱しました。

宿敵松永久秀

久秀が筒井領に侵攻を始めるのは、1559年になってからでした。直ちに敗北するという流れではありませんでしたが、次第に追い込まれ、筒井氏に味方していた勢力が降伏していきました。そんな中1564年に順政を失ったことで、筒井氏の統治にほころびが生まれます。
1565年に三好三人衆や松永久通らによって将軍足利義輝が暗殺されると、畿内での勢力関係が大きく動きました。三人衆と松永氏は反目し、勢力基盤を強固なものとしたい久秀は、筒井氏の弱体化を見逃さず、筒井城に奇襲をかけてこれを奪取しました。
翌年からは順慶は三好三人衆と結んで久秀と戦って、筒井城を奪還。その後も久秀と剣を交えました。
しかし、この頃織田信長が勢力を広げ、足利義昭を奉じて上洛してきました。情報に詳しかった久秀は早々に信長に接近し、大和一国の平定を許されました。大和の勢力のほとんどは筒井氏に属していましたが、信長から送られてきた佐久間信盛ら二万の増援によって追い込まれ、親族の城で潜伏して過ごすことになりました。
ところが1571年になると久秀が信長に謀反を起こしたため、順慶は辰市城を築城して久秀との戦いに備えました。この城を巡る戦いで順慶は久秀に大勝して、松永方の有力な家臣を討ち取りました。
信玄が病没し、義昭も追放されて久秀も降伏することになった頃、順慶も明智光秀の仲介で信長に臣従しました。しかし数年後、久秀はまたしても謀反を起こし、信貴山城に籠城します。その攻略戦で主力となったのが、筒井軍でした。順慶の手勢は、本願寺から松永軍への援軍に紛れ込んで潜入し、城内への侵入を助けたといわれています。
久秀の遺骸は順慶によって達磨寺に葬られました。久秀は順慶にとっては仇敵ではありましたが、僧としての本分を果たした形になります。

洞ヶ峠

1582年に本能寺の変が起きると、光秀から加勢の要請が届きました。光秀は順慶が信長に臣従した際の仲介者でもあり、友人でもありました。教養人であった二人ですので、気が合ったのかもしれません。
順慶の側では会議が重ねられましたが、動向は揺れ動いています。一度は光秀に味方して兵を出してはいるものの、積極的な行動は起こさず、結局は兵糧を集めて籠城の準備をしましたし、羽柴秀吉に恭順の書状を送っています。
態度のはっきりしない筒井勢を促すため、光秀は洞ヶ峠に布陣して様子を見ましたが、順慶は傍観を決め込みました。結局、筒井氏・細川氏といった畿内の有力勢力の加勢を得られなかった光秀は三日天下で終わります。このときの筒井氏の動向を元に、日和見主義のことを「洞ヶ峠」と呼ぶようになったといいます。
その後は秀吉に仕えて大和の所領は安堵されますが、徳川家康との戦いへの参陣を求められ、病を押して出陣したのがたたったのか程なくして亡くなります。このときまだ三十六歳でした。先代に続いて若すぎる死です。
筒井氏の後は養子の定次が継ぎましたが、三十年ほどの後に豊臣家への内通を疑われて改易され、自害を命じられました。
筒井順慶 辞世の句です。

根は枯れじ筒井の水の清ければ心の杉の葉は浮かぶとも

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