蒲生氏郷 辞世の句です。

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戦国武将 辞世の句

織田信長に気に入られ、豊臣秀吉からも高く評価された名将です。長生きしていれば、関ヶ原の展開はまた違ったものになったことでしょう。

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出自

生年は1556年。蒲生賢秀の三男として誕生しています。父は六角氏に仕える重臣で、観音寺騒動の際には、問題解決を主導しました。六角氏が織田信長に攻められて、領地を捨てて落ち延びても、賢秀は日野城を守って戦い続けようとしましたが、神戸具盛の説得に応じて降伏。当時まだ子供だった氏郷を人質に差し出しました。このときに氏郷を見た信長はその資質を高く評価し、「これはただ者ではない。うちの娘の婿にしよう」と言って、この約束は守られます。

少年期から、死ぬまで戦争

十四歳で初陣を果たした氏郷は、父と共に柴田勝家の与力として転戦しました。氏郷にはたくさんの逸話が残されています。これはもっと高い立場についてからの言葉になりますが、「指揮官が後ろから指図するだけではだめだ。大将が真っ先に敵陣に突入し、ここは安全だと示せば家臣はつて来る」などと残しているようです。人によっては、それを匹夫の勇と呼んだりもするでしょうけども、歳を取ってもそんな調子ですから、若い頃の氏郷もまたたいそう剛の者だったに違いありません。信玄の斥候と肉弾戦をしたとも伝わっています。
本能寺で信長が討たれたとき、父賢秀が安土城の留守居役を務めていました。氏郷は父と連携をとり、信長の家族を日野城へと移送し、保護しました。明智光秀からは破格の知行を条件に誘われましたが拒絶。いよいよ日野城が攻撃の対象となる頃、光秀の三日天下が終わりました。
その後は秀吉に従って戦功を重ねました。この頃でも氏郷の性向は変わらず、兜に銃弾が三発も命中するような戦い方をしています。
重なる働きにより、会津に四十二万石を与えられました。
会津の領主としての仕事は、何よりも伊達政宗の監視でした。会津を与えるのは、政宗を抑えられそうな人物でなければならない。これが前提でありましたので、候補は細川忠興と氏郷だったようです。いずれもただ者ではなく、このくらいの者でなければ、会津は任せられませんでした。
実際、奥州での一揆には政宗が関与していたという話もあり、鎮圧は一筋縄ではいかなかったのです。
奥州の混乱に対処した後、文禄の役が始まります。氏郷も参陣したものの、病のために養生することとなりました。しかし病床は長引き、ついに1595年、四十歳で亡くなりました。秀吉や、前田利家、徳川家康からも名医が遣わされたそうですが、どうにもならなかったようです。
家督は秀幸が継ぎましたが、お家騒動のため宇都宮に転封、十八万石の知行へと減らされてしまいました。そして、蒲生氏に代わって会津の領主となったのが上杉景勝でした。こうして、関ヶ原の合戦は、まず会津への遠征という形になったのです。

忠興と比べて

氏郷と忠興には接点がたくさんあります。両者とも利休七哲に含まれておりますし、勇猛で戦果を挙げ、天才肌と言える点でも共通しています。
しかし、短期で粗暴な忠興と比べると、氏郷は聖人のように寛容な人物に映ります。月に一度は会議を開き、立場の高低を顧みずに存分に本音で話し合わせ、終わったら自ら風呂を沸かし料理をごちそうしたと言います。家臣を処罰した理由は「おべっかを使うのが気に入らん」とか「子供を捨ててもかまわないなどとは許しがたい」といったものですし、一度は追放した家臣と相撲を取って二度までも投げ飛ばされたときなどは、むしろ加増しています。
しかし信賞必罰は徹底しており、軍規を破る者については厳しく罰したといいます。
若い頃から氏郷と忠興は、互いに悪口を言い合っていたそうですから、似たもの同士で全く似てないというのは、やはり意識せずにはいられないものなのかもしれません。
蒲生氏郷 辞世の句です。

限りあれば吹かねど 花は散るものを こころみじかき 春の山風

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