織田信孝 辞世の句です。

スポンサーリンク
戦国武将 辞世の句

織田信長の息子の一人であり、家督の相続には近い位置にいました。しかし、豊臣秀吉によって妨害され、ついには自害に追い込まれます。

スポンサーリンク

誕生から神戸氏の家督相続まで

誕生は1558年。兄の織田信雄と同年の生まれです。それどころか、実際には信孝の方が早く生まれたという説もあり、二人の成年はごく近かったものと思われます。
美濃を押さえた信長が、足利義昭を奉じて上洛する頃、織田氏の目が伊勢にも向きました。伊勢を治めていた実力者は北畠氏でしたが、その一族である神戸氏とも戦いになりました。
一度は織田の軍勢を追い返した神戸氏ですが、次の本格的な侵攻の前に降伏。信孝を当主の養子として後継者にすることで、和議を結びました。
当主であった具盛と信孝の関係は悪く、具盛は信長によって隠居させられ、幽閉されることとなりました。このようにして、信孝が神戸氏の当主となったのです。

本能寺以前

信孝の運命が急転直下を迎えるのは本能寺の変ですが、それまでの信孝は様々な方面での活躍が見られます。
信長の息子、一門において特に用いられたのは五名。
嫡男であり期待されていた後継者でもある信忠を筆頭に、次男の信雄、弟の信包、信孝、弟の遺児である信澄でした。
主に信忠の軍に所属して武功をあげ、足軽と功を競うなどの働きも見られることから、勇猛な武人であったようです。そのほか、交渉ごとにも名前が見られ、朝廷との関わりや、武田氏の家臣への調略などでも成果を残しています。
1582年になると、長宗我部氏との戦いの総大将を任されることとなります。信孝の所領はせいぜい五万石ほどの領地だったようですが、そこの十五歳から六十歳までの労働力を根こそぎ動員して兵力を確保しました。さらには伊賀・甲賀の者や、雑賀衆などからも二千人ほどを集め、さらに各地からの兵力をかき集め、一万四千ほどに膨れあがりました。
しかしいざ出航と言うときに本能寺の変がおこり、遠征は中止となります。

本能寺以後

信長の死は瞬く間に一般にも知れ渡り、信孝の兵の士気は壊滅。烏合の衆であったため逃亡兵が相次ぎ、信孝の手勢だけでは明智光秀には手出しができませんでした。
かといって何もしないわけにはいかない信孝は、一門であった津田信澄を討ちました。信澄が、光秀の娘を娶っていたことが理由です。
信澄と光秀が結んでいるという噂もあったようですが、あまり信憑性はありません。それでも、積極的な行動を見せたことで近隣勢力の信頼を勝ち取り、協力者を得られました。
中国地方から帰還した秀吉と合流し、名目上の総大将となりました。信長の敵討ちとなる戦いですから、大将も織田家の血筋の方が都合がよかったのでしょう。
しかし、光秀を倒したあとで開かれた清洲会議では、信孝も信雄も会議に出席することすらかなわず、織田氏は信忠の子、三法師が継承することと決まりました。信孝は信忠の後を継いで岐阜城を預かり、三法師も手元に置いて後見することができましたが、これもごくわずかな期間でした。
織田氏の簒奪を目論んだ秀吉は、冬になると兵を挙げ、岐阜城を包囲しました。信孝の同盟相手は柴田勝家でしたが、北陸に拠点を持つ勝家は冬の間は積極的な活動ができません。
なすすべもなく降伏した信孝は、三法師を手放し、家族を人質として差し出しました。
年が明けると、滝川一益、勝家、信孝が相次いで反秀吉の兵を挙げましたが、敗北。兄信雄によって岐阜城を包囲され、再び降伏しました。
捕らわれた信孝は尾張へと移されることになっていましたが、途中の寺で自害させられました。
差し出した家族はことごとく処刑され、信孝の血筋は残りませんでした。
しかし、娘が一人生き延びたとも言われており、また各地には信孝の子孫を称する家があるそうです。
織田信孝 辞世の句です。

昔より主を内海の野間ならばやがて報いん羽柴筑前

コメント

タイトルとURLをコピーしました