竹中重治 秀吉への最期の言葉です。

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戦国武将 辞世の句

竹中重治、または竹中半兵衛と呼ばれます。竹中重治は1544年、斎藤道三の家臣・遠江守重元の子として生まれました。重治は家督を継ぐと、不破郡一帯に勢力を拡げました。重治が有名になったのは、主家斎藤氏の居城・稲葉山城乗っ取りを企てたときです。原因はさまざまに流布されていますが、暗愚な主君の目を覚まさせようとしたといわれています。
重治は、人質として城内にいる弟竹中久作と連絡をとり、屈強の家臣を変装させ、城内に侵入して、一気に打って出たあと、味方の軍が城内になだれこみ、城下を制圧。騒ぎに驚いた斎藤龍興は、 近臣のすすめで城の裏門から脱出し逃げました。
稲葉山城は、尾張の織田信長が攻めても落せなかった城です。重治の稲葉山城乗っ取りを知った信長は、美濃半国を与えるから、城を明け渡すよう求めました。しかし、重治は、それを断わり、斎藤龍興に城を返して、国外へ去り隠棲します。信長が美濃に侵攻したときに秀吉に誘われて秀吉の家臣になります。重治は龍興を見限って信長側につきました。
越前国朝倉氏討伐に従軍して浅井氏の出城・長亭軒山城を調略した功績により、信長から褒美を拝受しました。その後、羽柴秀吉とともに敵地の横山城に残り、長期戦にそなえました。以後、軍師として秀吉の片腕となりました。
信長の小谷城総攻撃時には、秀吉に献策して信長の妹お市の方とその娘たちを救いました。小谷城の落城後、浅井氏の旧領を得た秀吉から、千五十三石を給され、新城長浜の町づくりに貢献しました。
秀吉の播磨攻めの際に、黒田官兵衛(のちの黒田如水)と知り合い、以後、重治と官兵衛の二人は秀吉の両腕となって活躍します。
摂津の荒木村重も謀叛をおこし有岡城に籠城しました。このとき官兵衛が説得のために村重のもとを訪ねましたが、逆に囚われの身となり、一年半牢屋に幽閉されてしまいます。相次ぐ裏切りに逆上した信長は、官兵衛の息子で人質の松寿丸(のちの黒田長政)を殺せ、と秀吉に命じました。官兵衛を信じる重治は、松寿丸を長浜城から岩手へ移し、かくまいます。のちに助け出された官兵衛はこのことを非常に感謝しています。
このころ重治は肺病を患っていて療養していましたが病は快方に向かいません。重治は武士ならば戦場で死にたいと秀吉に懇願します。秀吉本陣に戻ると陣中で三十六歳の若さで死去しました。
竹中重治 秀吉への最期の言葉です。

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信長公は英知大才の方ですが、気質は温順でなく、片寄ったところがありますので、ご用心ください


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