毛利元就 辞世の句です。

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戦国武将 辞世の句
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友を得て なおぞ嬉しき 桜花 昨日にかはる 今日のいろ香は

毛利元就は安芸の小規模な国人領主から中国地方のほぼ全域を支配下に置くまでに勢力を拡大し、一代で中国地方を制覇します。
傑出した戦略家・謀略家。戦国時代最高の智将、「謀神」とも呼ばれ、用意周到な策略で自軍を勝利へ導く稀代の策略家でした。
毛利弘元の次男として生まれ、幼名を松寿丸といいます。父・弘元が、三十五歳の若さで隠居すると、嫡男幸千代丸に、家督と本城である吉田郡山城を譲り、自身は元就を連れて猿掛城に移りました。五歳のときに母を十歳のときに父を相次いで失った元就は、幼くして猿掛城主になりますが、家臣の裏切りに遭い、猿掛城を追われます。
その困窮した境遇を「乞食若殿」と揶揄されるなか、継母の杉大方に養育されます。兄が急死したため、家督を幼少の嫡男が継ぎ、元就が後見することになりました。
幼い主君に代わり戦場に出た元就は抜群の活躍を見せ、毛利家中の信望を集めます。主君が九歳で夭折すると、重臣たちの推挙で元就が家督を継ぎました。
毛利氏ははじめ尼子氏に仕えていましたが、当主経久が元就の家督相続に反対したため、尼子氏と次第に敵対関係となり、大内義興の傘下となります。
尼子晴久が三万の兵で元就の本拠地である吉田郡山城を攻めた際に、兵を撃退すべく、児玉就忠・福原貞俊を派遣。敗北しますが、大内氏の援軍もあり尼子軍を退けます。
元就には九男二女がいて、長女を甲立城の城主、穴戸元源に嫁がせると、二男、元春の妻には備中高松城の熊谷信直の娘を迎えて、元春を吉川家に養子に入れ、また三男、隆景には沼田小早川の娘をめとって、隆景を小早川氏へ養子に出し毛利家に組み込みます。これにより、小早川氏の水軍を手に入れ、安芸一国の支配権をほぼ掌中にしました。
1551年 陶晴賢は主君である大内義隆を討ち大内氏の実権を握ると元就は一応の協調姿勢をしめしながら勢力を広げます。
しかし陶晴賢との関係が悪化して対立すると、厳島の戦いで多数の謀略を張り巡らせ、陶軍の兵力約二万を毛利軍はわずか四千でやぶると、大内氏の領地を手中に収め一躍大国の大名に成長します。
1563年に宿敵尼子氏を攻めている最中に長男の隆元を亡くします。元就は悲しみに耐えながら、跡をついだ孫の輝元を補佐します。
1566年に尼子氏を倒し中国地方の覇者になると孫の輝元を次男元春、三男隆景にたくして亡くなります。享年七十五歳でした。

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