朝倉義景 辞世の句です。

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戦国武将 辞世の句

浅井長政の同盟者として有名で、共に戦い共に滅んだという印象が強いかと思いますが、実際のところ、義景の方は戦いは苦手だったようで、戦績に見るべきものはありません。が、一般的な評価ほど無能というわけではなく、生まれる時代、もしくは家柄を間違えたという感じがします。

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誕生から家督相続まで

1533年に、四十になる父孝景の長男として誕生しました。越前朝倉氏も様々な問題は抱えていた時代ですが、近隣の国と比較するとだいぶ安定した内情で、大きな問題は加賀に勢力を増した一向宗との戦いくらいでした。
その戦いも、宗滴の名で知られる朝倉氏の名将朝倉教景の戦功によって優位に進んでいました。義景が十代半ばの時に孝景が亡くなり、義景が家督を継ぎますが、この後しばらくの間は平穏な時代が続きました。
野心とはほど遠く、乱世よりも治世に適正のあった義景としては、この状況がずっと続いていれば意外と名君として名を残したかもしれません。大陸との貿易を改善したり、ガラス工房などを建てて新しい産業を興したりしていたといいますので。

織田信長との戦いまで

義景の義の一字は時の将軍、足利義輝の諱を拝領したものです。歴代の朝倉氏の当主よりも上の位も授けられ、管領であった細川晴元から正室を迎えたりもしています。
1565年に義輝が暗殺されると、弟の義昭は朝倉氏を頼って落ち延びてきました。これは当時の朝倉氏が、旧権力側と親しい立場を取っていたことも影響していると思われます。
義昭は将軍になるべく、義景に上洛を催促しますが、義景にはその気は全くなかったようで、兵を動かす気配もなく時は過ぎていきました。
もし義景にたぐいまれなる才能があったのであれば、ここで時間を無駄にしたことは悔やまれるかもしれませんが、義景に特別な才があったとは思えないため、これはこれで身の丈に合った英断だったかもしれません。
しかし信長が美濃を制圧すると、義昭は頼る相手を織田氏に変えてしまいました。信長にはあふれる野心と、それを実現する能力が備わっていました。たちまちに上洛を果たし、将軍家の権威を利用する立場に立ちました。
義景は、信長からの上洛命令を拒絶しました。信長の下につくのが気にくわなかったとも、越前から兵を動かして、一向宗に対して隙を作りたくなかったともいわれていますが、将軍家の名の下に発せられた命令に背いたことで、征伐の名分を与えることになりました。

穏やかな時代に生まれていれば

義景の統治前半の越前は非常に安定しており、訪れた人々から羨望の眼差しを受けるほどでした。軍事には疎い義景ですので柔弱のそしりは受けたかもしれませんが、暗愚と言われるような人物ではありませんでした。
文化の発展にも寄与しており、和歌・絵画・茶道などの文芸をたしなみ、領内でも活発だったと思われます。
ルイス・フロイスによれば越前は、畿内よりも言語が洗練されていたと評されています。
しかしながら越前も戦乱に巻き込まれます。浅井氏が織田氏を裏切って朝倉氏に味方したまではよかったものの、力を合わせて戦っても織田・徳川勢に打ち勝つことはできず、積年の敵対関係を解消してまで一向宗と手を結び、それでもまだ劣勢を強いられ、ようやく甲斐の武田信玄の出馬となって信長に楔を打ち込む機会を得ました。
ところが義景は、部隊に損害が出たところで引き上げてしまいました。信玄としては浅井朝倉連合軍が岐阜の軍勢を釘付けにしているうちに、東から攻勢を仕掛ける算段だったようですが、朝倉軍の離脱によってそれも失敗。信玄からは義景に対して非難の書状が送られています。

最期

1573年、頼みの綱の信玄も病没し、信長包囲網が緩くなったことで、織田氏は攻勢に出ました。浅井氏への援軍として出陣した二万の兵でしたが、軍略の差を見せつけられます。数日後に本城、一乗谷城へと逃げ延びたのは、義景の他には十名ほどの兵士しかいない有様だったそうです。
もはや城を守る兵もおらず、寺を頼りましたが、最後は従兄弟の景鏡に襲撃されて果てました。
朝倉義景 辞世の句です。

かねて身の かかるべしとも 思はずば 今の命の 惜しくもあるらむ

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