井伊直政 辞世の句です。

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戦国武将 辞世の句

徳川四天王の一人です。井伊直政は、1561年に今川家の名門譜代、井伊直親の子として生まれました。幼名を虎松といいます。
井伊直親の長男。祖父・直盛は今川義元に仕えて合戦で戦死。父・直親は、直正が二歳の時に謀反の嫌疑をかけられ今川氏真に誅殺されました。井伊氏は所領を没収され、二歳の直政は、親族の家にかくまわれていましたが、十五歳の時に徳川家康に見出されました。
直政は鷹狩をしていた家康に一目でその大器を見込まれ、拾われたといわれています。家康に幼名竹千代にちなみ、万千代と名付けられて井伊谷の所領を回復させました。
直政は二十二歳のときに旗本先手役に任ぜられて徳川家康に仕えます。初陣は武田勝頼勢と戦った遠江芝原の戦いでした。以後、家康軍の先鋒となって軍功をあげ、十三歳年上だった本多忠勝・榊原康政の同僚となります。
本能寺の変の際には、徳川家康の伊賀越えに随行しました。
小牧・長久手の戦いにおいても、先鋒として出陣し、池田恒興らの軍を破り、敵軍であった豊臣秀吉にも高く評価されたといわれています。
徳川家の家老の筆頭たる石川数正が秀吉に引き抜かれ、徳川家の軍法などが豊臣家に筒抜けになったことを受けて、家康は徳川家の軍法を武田家の甲州流に変更しました。
これに伴い、旧武田軍を従えていた直政は武田家から山県昌景隊の赤備えと称する一団部隊を引き継いで率いていたため「井伊の赤鬼」と言う通称で恐れられました。勇猛果敢な猛将で自ら先陣に立って戦うことを好み、その全身は傷だらけであったといいます。
直政は数々の武功を評価され、1590年に家康の関東への移封に際しては箕輪城に十二万石を与えられました。
1598年には、箕輪城を廃し、元あった和田城を改修して高崎城として移ります。
関ヶ原の戦いでは、諸大名を東軍につける調略で、西軍諸将の切り崩しを行い、合戦当日も先陣を強引に奪い取るなど前線で活躍しました。
合戦地では家康の四男の松平忠吉を支えています。
直政は退却する島津義弘勢を猛追して島津豊久を討ち取りましたが、直政は肩に銃弾を受けて落馬しました。
戦後処理にも尽力して江戸幕府の基礎固めにも貢献。石田三成の旧領近江佐和山十八万石を与えられました。しかし合戦で受けた鉄砲傷が原因で、四十二歳で死去。
彦根藩三十万石の藩主となった井伊家は、徳川譜代大名の筆頭として江戸幕府に貢献しています。
井伊直政 辞世の句です。

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祈るぞよ 子の子のすへの 末までも まもれあふみの 国津神々

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