真田信之 辞世の句です。

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戦国武将 辞世の句
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真田家を存続させた功労者

真田信幸(信之)は、真田信繁(幸村)の兄。
大阪夏の陣、冬の陣で華々しい活躍している弟の影に隠れていますが、とても優秀な兄です。父の昌幸と共に戦った戦では、家康が信幸の知謀、戦ぶりなどを評価していることが充分に伺えます。
江戸時代の松代藩の基礎を作り上げた信幸の紹介です。

昌幸の嫡男(長男)として誕生、武田家の人質になる

父の昌幸は武田信玄に仕えていて信玄からの信頼が厚かったのですが、当時の風習として嫡男を差し出すことが「忠誠を誓う」ことを意味しましたので、嫡男信幸は慣習の通り信玄の人質になりました。しかし人質は丁寧に扱われたと推測されます。行動もある程度自由ですし、文武両道の教育も受けることができたようです。裏切りが無い限り人質は安定した生活を送る事が出来ました。信幸が十四歳の時に主君、武田勝頼の嫡男、勝信と一緒に元服を許されています。武田家としては信幸を大切にしていた証拠です。
勝頼が天目山の戦いで討ち取られ武田家が滅亡すると、昌幸は織田、上杉、北条、徳川と渡り歩いて真田家を守り通していましたが、徳川家康と対立することになります。

第一次上田合戦(1585年)で父の昌幸とともに徳川軍を打ち破る

信幸が二十歳の時に第一次上田合戦が勃発します。これは徳川と北条の和睦に際して、家康が真田家に断りを入れずに沼田領を北条に割譲すると約束したからです。沼田領は徳川から拝領した土地ではなく真田が苦労して獲得した領地ですから昌幸の激怒には理があります。この時、真田は徳川との縁を切り、上杉に臣従して次男信繁を人質として上杉に差し出しました。この事件は真田に責任はなく、無理難題を言ってきた徳川方こそ非難されるべきでしょう。
この戦、徳川方の兵力は8千、真田方はわずか2千。4倍の兵力でした。信幸は300の兵を連れて戸石城にて徳川方と相対します。昌幸の奇策で徳川方は散々な目に合い戦死者は1300(300という説もあります)、真田方は40(21という説もあります)。昌幸の父の幸隆も信玄に仕えていて、多分親子で信玄の戦略(孫子の兵法)を知っていたと思われます。上田城は1583年に昌幸によって築城された難攻不落の城(3方が自然の要害に囲まれていた)で、この合戦の時には大いに役立ちました。

二十四歳で徳川家康の養女(本多忠勝の娘、小松姫)と結婚する

1589年に豊臣秀吉の仲介で徳川と真田の和睦が成立し、真田家は徳川家に仕える事となりました。
徳川家康が信幸の優秀さを知ったのは、徳川家康の家来である井伊直政の戦場における信幸の雄姿、武勇を聞いたためと推測されます。(文献が残ってない為、真偽は不明です)。徳川家康は本多忠勝の娘である小松姫を養女として、信幸と結婚させました
第一次上田合戦で真田の武勇を知っている本多忠勝が徳川家康に真田家の取り込みを進言した「政略結婚」であるとも言われています。
当時の大名家では、多かれ少なかれ政略結婚が普通に行われていましたので、当然のことかもしれません。当時は格式を上げる為に主君の養女として結婚させることも多かったようです。典型的な政略結婚でしたが、信幸と小松姫の仲はよく、たくさんの子宝にも恵まれます。

第二次上田合戦(1600年)で秀忠軍三万八千を翻弄する

真田家の次男、信繁(幸村)は大谷吉継の娘を娶っていました。その縁で信繁と父の昌幸は豊臣方(石田三成)に味方し、徳川家康の養女と結婚した信幸は徳川方に味方すると言う真田家を二分した「関ヶ原」となりました。
この作戦は真田家を存続させる為の昌幸の作戦と言い伝えられていますが、本当の事は分かりません。これはごく自然な流れでそうなったように感じます。
人間同士の縁でしょうか。徳川家康の娘を娶った嫡男信幸は当然、徳川方に付くでしょうし、大谷吉継の娘を娶った次男信繁は豊臣(石田)方に味方するのは当然の成り行きです。娘を信幸に嫁がせた本多忠勝の作戦勝ちかもしれません。もしも真田家全体が西軍に味方すれば戦の趨勢も変わっていたに違いありません。
徳川秀忠は三万八千の兵を率いて中山道を経由して関ヶ原へと進みます。途中、真田昌幸、信繁の居城上田城を攻めます。第二次上田戦争の勃発です。上田城の開城を求めた徳川方に、昌幸は開城をほのめかす様な言動をして徳川方を欺き、時間稼ぎをします。
真田側の兵力は2500~3000で戦にならないほどの多勢に無勢です。じっくりと腰を落とした戦いなら、間違いなく徳川方の勝利でした。この戦いは時間切れ「引き分け」と言えます。
第二次上田合戦で秀忠の軍勢の足止めに成功します。そのため秀忠は関が原の戦いに間に合わず家康から叱責されます。このことから秀忠は真田家を恨むようになり、後に信幸が苦労することになってしまいます。

関ヶ原で敗北した西軍。死罪の父昌幸と弟信繁(幸村)の命乞いをする

信幸は親思い、兄弟想いの武将でした。父の昌幸と弟の信繁(幸村)は西軍の敗戦を受けて徳川家康から死罪を命じられましたが、信幸や本多忠勝の奔走が効を奏して高野山へ蟄居謹慎という軽い刑で終わります。

信之と改名し真田家を守るも、秀忠の嫌がらせで松代に移封される

徳川に忠誠を誓う意味で「信幸」から「信之」に改名しています。「幸」は「昌幸」を連想させて、徳川秀忠にとっては思い出したくない名前、腸が煮えくりかえる名前だったからでしょう。
上田城は徳川の命令で打ち壊されてしまいます。そして秀忠の嫌がらせにより松代に移封されました。信之にとっては我慢できないほどつらい仕打ちであったと思われますが、辛抱して徳川の命令に従いました。
関ヶ原での父の決断を見て、真田家の家名を後世まで残さなければいけないという思いが強くなった信之だからこそ、我慢することができたのかもしれません。

九十三歳まで長生き、幕末まで真田家を存続させる

信之に特筆すべきはその「長生き」です。当時は人生五十年の時代、九十三歳は平均寿命をはるかに超えています。
信之は三代将軍徳川家光の治世まで生き続け、真田家の行く末を案じながら亡くなりました。
真田信之 辞世の句です。

何事も 移ればかわる 世の中を 夢なりけりと 思いざりけり

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