今川義元 辞世の句です。

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戦国武将 辞世の句

今川義元と言えば、桶狭間の戦いで、戦力的に圧倒的優位にあったにもかかわらず、織田信長の奇襲を受けて討ち取られてしまいました。
その後、今川家は滅亡に向かいます。桶狭間の戦いがなければ、歴史を根底から変えていたかもしれない人物です。

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誕生から家督相続まで

1519年、今川氏親の五男として誕生しました。五男と言うこともあって家督の相続には関わりそうにありませんので、幼少期にお寺に預けられたのですが、そこで出会ったのが、後の軍師太原雪斎でした。
1526年に氏親が亡くなり、家督は長男の氏輝が相続しました。
しかしながら氏輝は二十四歳という若さで急死、子もいなかったので弟の彦五郎が継承するかに思われましたが、この彦五郎もまた氏輝と同日に死亡するという奇妙な出来事が起きました。
それにより、出家した氏輝の子供の誰かを還俗させて家督を相続させる必要が生まれました。
そこで今川家臣や太原雪斎の要請により、足利義晴の諱を賜って義元と名乗って還俗しました。
しかしこのとき、今川家臣の一人だった福島氏が義元の兄を擁立したことにより、家督争いに発展。花倉の乱と呼ばれるこの戦いを制したことで、やっと義元が今川家の当主となることができました。

政治家として

義元の政治の多くの場面では太原雪斎が影響を及ぼしていたと言われています。
義元が当主になってすぐ、甲斐の武田信虎と婚姻や、今川・武田・北条で三国同盟を結ぶときにも、雪斎の活動があったといいます。
義元は雪斎を非常に重く用いたため、義元の政策と雪斎の政策の区別がつきにくいですが、総じて義元存命中の今川家の統治状態は良好でした。
軍事面でも商業面でも新しい政策を取り入れ、今川家の全盛期を迎えました。
東側では北条氏に駿河の東部を奪われたりもしましたが、川越の合戦に際して取り返しています。西側では三河の領主たちを従属させ、その中には後の天下人となる松平家などもありました。
織田氏とは三河を争って戦いましたが、二度にわたる小豆坂の戦いを経て、織田氏の勢力を三河から追い出して勝利しました。
こうして駿河,遠江、三河の三国を支配下に収め、六十九万石に及ぶ大名になりました。海のある地域ですので漁業や交易などもできましたので、米の収穫量分以上の経済力がありました。

太原雪斎の死と桶狭間

しかし皆さんご存じの通り、最後は桶狭間の合戦において、戦力的に優位にありながら奇襲を受けて討ち取られるという失態を演じてしまいました。
この数年前に雪斎はなくなっており、存命であったならばこうはならなかっただろうと考える人はたくさんいます。
もし桶狭間が起きなければ、織田家の国力で今川家を打倒することは難しく、途中で信長が戦死するような事態になっていれば歴史の教科書の内容は今とは全く違ったものになっていたかも知れません。
雪斎の影響力が強かったこともあり、雪斎を失ってすぐに、桶狭間でなくなってしまったために、本人の能力が非常に低く見積もられることがあります。
このあたりの話は、一方的な見方に寄りすぎており、あまり公正な見方とは思えません。
資料には馬に乗って逃げようとしたとありますので、乗馬そのものができなかったということはないでしょう。
義元の公的な記録が長く雪斎とともに残されており、雪斎を失ってから討ち死にまでが短すぎたために義元自身の能力を判断する材料が足りないため、実は優秀だったかどうかまでは不明ですが。
桶狭間の合戦が起きたのは1560年。義元が四十二歳の時でした。
今川義元 辞世の句です。

夏山の 茂みふきわけ もる月は 風のひまこそ 曇りなりけれ

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