柳生宗矩 辞世の句です。

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戦国武将 辞世の句

剣の達人で知られる柳生石舟斎の息子で新陰流を継承するも、剣術家として以上に、幕府の影での暗躍を描かれることの多い人物です。

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出自

1571年、父柳生宗厳の五男として生まれました。当時松永久秀に仕えていた柳生氏は、松永氏と筒井氏の戦いにも松永方で参戦しており、ちょうど宗矩が生まれた年の戦いで長男巖勝が負傷しています。
太閤検地で隠田がみつかった柳生氏は所領を召し上げられ浪人となりましたが、宗厳が徳川家康の求めで秘技を見せたことで出仕を請われ、代わりに宗矩が推挙されたことで再び歴史の舞台に柳生氏が登場することになります。

二百石から一万二千五百石まで

宗矩が士官した最初の禄高は二百石でした。
最初の加増は関ヶ原の時です。当初上杉景勝の討伐軍に従軍していましたが、石田三成が兵を挙げると柳生庄への帰還を命じられ、最前線での攪乱と情報収集を担いました。功績が認められ、関ヶ原の後太閤検地で没収された二千石を返還されました。
翌年には二代将軍徳川秀忠の兵法指南役に任じられ、千石の加増を受けます。
大坂の陣では秀忠の下に迫った敵兵十数名の内七名を一人で斬り伏せたといわれ、秀忠の後継者徳川家光の兵法指南役にも任じられ、幕府惣目付の役目も与えられるに至って一万石を領し、大名の一人となりました。
その後の加増も合わせ、最終的に一万二千五百石の領主となったのですが、剣術の腕を買われて仕え始めたにしては、人を斬った記録は大坂の陣しか残されておりません。
剣術家として大名になった者はいませんので、それが剣術家の限界であると共に、宗矩の剣術家としての技量に疑いがもたれる理由にもなっています。宗矩は結局政治家なのだから、剣士としては二流だったのではないか、と。
そうでもないと、傑物過ぎるというのは確かにその通りです。

味方には好かれ敵には恐れられました

秀忠、家光と二代にわたって剣術を教える立場になったわけですが、家光に対してはただ剣の師という以上の関係になりました。私的な相談も求められ、宗矩の死後には「天下統御の道は宗矩に学びたり」と語ったほどです。
家光に気に入られた沢庵などもよく相談相手となりましたが、晩年の宗矩が療養で湯治に出かけ不在にしたときなど、宗矩の話が出ないことがなかったといいます。何か手紙をもらってはいないか、と。
その沢庵も宗矩とは大変親しく、柳生家の屋敷の一室を与えてもらって住み続け、家光が屋敷をくれるといっても断り続けました。
吉川英治の『宮本武蔵』では、武蔵と沢庵の関わり合いが描かれますが、むしろ実際に剣と禅とを合わせて飲み下したのは宗矩です。その著作『兵法家伝書』に剣禅一如の概念が示されています。
家光には大変な信頼を受けていたため、惣目付(後の大目付)の任を担いましたので、諸大名からは非常に恐れられました。惣目付は大名たちの監査役であり、いわば近代の諜報部長のような地位にあります。

晩年

1646年、ついに病に倒れます。
家光はすぐに見舞いに訪れ、宗矩の望みを尋ねました。すると宗矩は柳生家の一万二千五百石の返上を申し出ました。最後に主君に希望したことは、末子の義仙を住職にしてやってほしいということでした。
宗矩は父宗厳を弔う寺を建てています。宗厳は勇猛で聞こえた猛将でありながら、領土の拡張からは身を引いた人物でした。
領地を没取されてもどこかのんびりしている様子もある人物を尊敬した子でもありましたので、あまり所領というものに執着がなかったのかもしれません。
伏してから数日後、七十六歳で亡くなりました。
死後、家光の推挙により従四位下の官位を贈られました。従四位下の位は一部の大名家が与えられるものであり、少なくとも松平家を除けば十万石に満たずに与えられることはありませんでした。
柳生宗矩 辞世の句です。

柳生の地に一寺を建立し、亡父宗厳の霊を弔い、四男六丸に堂を守りをさせたい。

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