北条氏康 辞世の句です。

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戦国武将 辞世の句

北条氏康は戦国時代の武将であり、相模の国の大名でもあります。後北条氏の二代目当主である北条氏綱の嫡男として1515年(永正12年)に小田原の地で誕生しています。幼名は新九郎と言いました。様々な事を学び、足利学校が復興することにも尽力し、三条西実隆に詩歌を学んで相当な詠み手となったと言われています。
元服を済ませた後には、1530年の小沢原の戦い(扇谷上杉家の上杉朝興との戦)において初陣を飾ったと言われています。それからは父に従って各地で戦を経験し戦功を重ねています。
1538年の第一次国府台合戦においては、父・氏綱が主導権を握っていたものの氏康自身も足利義明や里見連合軍と戦を行い、足利義明(敵の総大将だった)を討ち勝利しています。こうしたことが、関東管領よりも上である古河公方家にしてみれば功労とみなされ、1540年には氏康の妹は三代古河公方である高基の息子である晴氏に嫁ぎました。さらに、その妹は義氏(五代公方)を出産し、その年には父・氏綱が亡くなったことで、氏康が家督を継ぎました。氏綱が二十六歳の時でした。
しかし、氏綱は危機にさらされることになります。1545年の第二次河東一乱において、今川氏や山内上杉氏、扇谷上杉氏を敵として苦境に立たされたのです。しかし、甲斐の武田信玄によって今川氏との和睦が叶ったのでした。
1546年には、河越城(北条氏の前線基地となっていて、前年に敵に包囲された)が未だ籠城を続けていたので、氏康はその救援に向かいました。そして、駿河長久保城と武蔵河越の2つの城を出城にして、上杉憲政や今川義元などと戦いました。8000の兵を率いて両上杉と足利の連合軍(数万の平を要する)に対して夜襲をして勝利したのでした。これは、『河越の戦い』と言われています。
扇谷上杉朝定は戦死し、扇谷上杉家は滅亡しました。そして、関東管領である山内上杉氏
が上野に敗走、足利晴氏も古河に敗走することとなり、北条氏は武蔵を手中に収めたのでした。
これを機に氏康は武名をあげてさらに下総古河城を攻め落とし、その後も安房里見義弘の水軍、甲斐の武田、駿河の今川氏などと戦っていきますが、氏康の頃の領地は武蔵より北には伸びませんでした。それは、氏康の代には北条氏が恐れられるようになっており、関東自体が北条氏のものになると危機間を募らせ、管領の上杉氏は関東を捨て越後に逃げ、越後の守護をしていた上杉謙信が関東に攻めてくるようになってきたからでした。
しかし、このこともあり、上杉謙信とは険悪になり、後に関東遠征をされることとなりました。
1554年には、甲相駿三国同盟が結ばれ、氏康は一層関東において戦がしやすくなりました。それからも勢いを増していき、1559年には次男の氏政が家督を継いで、氏康は隠居をしました。この頃には、上野国は北条氏が大体支配していました。
1560年からの関東遠征では、上杉謙信は凄まじい勢いで小田原城まで攻めてくるのですが、籠城戦において撃退をしました。とは言え、その中で北条側の関東の武将たちの一部が離れてしまい、北条氏の勢いは弱まってしまいます。
1564年には、上総国を巡った第二次国府台の戦いが行われました。この戦では里見軍を破り安房に追い返します。同じ年には、太田資正(扇谷上杉氏の家臣である太田資頼の次男)を岩村城より追い出し、武蔵を大かた平定しました。
ところが、1567年に起きた三船山合戦において里見軍に惨敗してしまい、娘婿でもある太田氏資が戦死をしてしまい、上総を支配できなくなってしまったのでした。
1568年から70年にかけて武田信玄が駿河に侵攻を始めると、今川氏との同盟を重んじて甲相同盟が打つ手のない状態となってしまいました。信玄と競うために、1569年には上杉謙信と越相同盟を結びました。
同じ年には武田軍が侵略し小田原城が包囲されてしまいますが、籠城戦において退けました。ところが、それから三増峠の戦いで武田軍を追撃したものの、大敗してしまいます。
その後、体調が思わしくなくなった氏康は57歳で病死します(1570年に56歳で没したとする説もあります)。氏康は、特に武田氏と間を気にしており、その武田氏と和解することを遺言としました。
氏康は籠城をすることでの陣地戦を多く用いた点が特徴と言えます。謙信や信玄といった武将に包囲された小田原での籠城戦においても、それは顕著に見られるでしょう。謙信に十万もの兵で囲まれたものの、相手が物資等を補うことが難しいであろうということを判断した上で籠城して、謙信らの撃退に成功しています。
さらに、氏康が行った領国の管理については、幾度となく行われた検地で土地を把握することや、税制の改革を行ったことが基となっています。こうしたことから、氏康の時代においては組織もしっかりとして整備されていたということもわかります。
氏康が生前に四十五歳で隠居をしているので、家督を継いだ氏政は氏康が見守る中で経験を積んでいくこともできたのです。そうしたことから、氏康の死後も家臣たちは落ち着くことができたのでした。
北条氏康 辞世の句です。

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夏は来つ 音に鳴く蝉の 空衣 己己の 身の上に着よ

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