今川氏親 辞世の句です。

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戦国武将 辞世の句

有名な今川義元の父に当たります。また、北条早雲の甥でもあり、後北条氏躍進の第一歩を支援した人物でもありますので、後世に与えた影響も計り知れません。

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誕生から家督相続まで

1470年代前半に誕生したとみられています。父は今川義忠。
義忠は応仁の乱で東軍に属していましたが、遠江を領有すべく、同じく東軍に属した斯波氏とも戦っていました。斯波氏は幕府が正式に任命した遠江守護でありましたので、義忠は危ない橋を渡っていたことになります。
そして、今川氏を離れて斯波氏に寝返った勢力を討伐するために遠江に出兵した際、命を落としました。このとき氏親はまだ幼少でした。
義忠が幕府に背く形で死亡しているため、幕府からの追及をかわす意味もあり、今川家臣の多くが今川氏庶流の小鹿範満を次期当主に推しました。
こうして氏親派と範満派に分かれて内乱となり、ここに扇谷上杉氏と堀越公方が介入して、範満派を支援しました。しかし結局は上杉氏も堀越公方も撤退し、範満が氏親が成長するまでの代理になることで決着します。このときの交渉をまとめたのが、氏親の叔父であった早雲でした。
ところが約束は守られず、氏親が成人後も範満が居座っていたため、早雲が兵を率いて範満を討ちました。かくて氏親が当主となり、早雲は駿河の東部に領土を与えられたのです。

遠江獲得

父を遠江で失っていたこともあり、氏親にとって遠江を領有することは悲願でありました。1494年頃から始まった遠江遠征ですが、初期の頃の総大将は早雲が務めていました。なにしろ名将早雲のこと、遠江でも優位を確立し、三河の松平氏と交戦するほどまでに深く入り込んでいきました。
しかし松平長親が寡兵で今川軍を破ったことで、快進撃も止まり、しばしの停止期を迎えます。そしてこの頃から早雲は自国領の統治に忙しくなり、今川氏の家臣としての活動が見られなくなります。
早雲の後は氏親自らが出陣していたのか、戦いに名前が見られるようになります。遠江遠征の開始から二十余年、大河内定綱の引馬城を降して遠江を平定し、駿河と併せて二カ国を領有しました。

今川氏の立ち位置

父義忠が反幕府としての活動を見せてしまいましたが、今川氏は幕府にとっても大事な役回りを続けました。早雲に与えられた領土は堀越公方の領土に近かったため、将軍の母と弟の敵討ちが命じられました。その頃の将軍は、堀越公方の血を引く足利義澄に替わっていたのです。
氏親も早雲を支援し、早雲は伊豆を掌握。ここに後北条氏拡大の第一歩を踏み出します。山内上杉氏と扇谷上杉氏の争いでは扇谷氏を救援し、氏親も早雲も兵を送り出しています。
遠江遠征の途中では、義澄が将軍職を奪われ、義稙が新将軍となりました。氏親は義稙を支持し、遠江の守護職を与えられています。
関東管領家は、当初義稙派に属し、早雲によって劣勢に立たされたことで義澄との関係も改善させました。すると逆に、今川氏・北条氏は義稙に味方するというように、幕府権力も背景に、関東進出の名分を確保していたことが窺えます。
こうして氏親と早雲の二人三脚での関東介入によって、後北条氏が相模伊豆を掌握するにいたり、氏綱、氏康を経て大勢力となっていくのです。

晩年

病のために寝たきりとなった氏親に代わり、正室であった寿桂尼が政務を取り仕切ったと言われています。寿桂尼は後継者である氏輝や義元等の母であり、氏真の代まで政治に関わりました。氏親が死の間際に記した『今川仮名目録』は、寿桂尼を中心として制定されたのではないかとも言われています。
1526年に氏親は没し、氏輝が後を継ぎました。しかし氏輝も体が弱かったようで、10年ほどで死去。発生したお家騒動を制した義元が当主となり、関東情勢が形作られていくことになります。
今川氏親 辞世の句です。

「なかなかに 世にも人をも 恨むまじ 時にあわぬを 身の咎にして」
「悔しとも うら山し 共思はねど 我世にかはる 世の姿かな」

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