斎藤義龍 辞世の句です。

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戦国武将 辞世の句

マムシで知られる美濃の斉藤道三の息子です。父には暗愚と評されましたが軍才にあふれ、統治も順調でした。もし長生きしたならば、信長の勢力拡張に多大な影響を及ぼし、歴史が変わっていたかもしれません。

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誕生から家督相続まで

1527年、道三の長男として生まれました。兄弟は多く、特に二男、三男の孫四郎、喜平次らは後に父の寵愛を受けるようになります。義龍自身は父からは好かれておらず、無能の烙印を押されて、疎まれました。
1554年、道三は隠居して義龍が家督を継ぎました。しかしながら道三は義龍の廃嫡をもくろみ、孫四郎を後継者にしようとし、喜平次には名門の一色氏を継がせました。これに対抗するべく、翌年、義龍は家臣に命じて弟二人を殺害させます。
こうして義龍は道三に対して対決の姿勢を明らかにし、内紛へと突入しました。

長良川の戦い

1556年、義龍と道三の間で合戦が行われ、道三は討ち死にしました。
この戦いに参加した兵力は、義龍側が一万七千、道三側は二千七百という次第で、圧倒的に義龍が優勢でした。
これはどうやら、道三が権力を握るに際して行った謀略や非道のために、美濃の武将たちが道三を快く思っていなかったことによるようです。美濃の三人衆とも呼ばれる、稲葉良通、安藤守就、氏家直元らもまた義龍に与し、主立った人材は道三の下には残っていませんでした。
道三の娘を娶っていた織田信長は舅を救援すべく援軍を率いていましたが、合戦には間に合いませんでした。義龍の軍勢は道三を討った後、この信長の部隊にも攻撃を仕掛け、退かせています。
この戦いを経て義龍は斉藤家の実権を完全に手中に収め、短い統治期間を迎えます。

存命中

道三による義龍評としては、娘帰蝶と信長の婚姻の儀に際して「我が子らは、信長の軍門に馬を繋ぐようになる」と、いずれ斉藤家が織田家に降るだろうという述べた話が有名です。
しかし義龍が存命の間、美濃に大きな混乱はなく、信長が美濃に手を出そうとしてもすべて撃退され、全く手出しができない状態でした。
道三自身も、長良川の戦いの前に美濃を信長に譲るという遺言を残していますが、義龍の戦いぶりを見て、自らの義龍評が誤りであったことを後悔したといいます。
身長は二メートルに近い大男だったという義龍であり、様々な逸話と父殺しの実績から、あまり理性的な人物として描かれることはありません。これらのイメージをまとめると、武勇にあふれる粗暴な暴君というのがわかりやすい姿ではありますが、実際上の統治体制は、家臣団に合議制を取り入れ、重臣の離反者も出さず、統治は安定していました。
外交的には、将軍家、足利義輝からは一色姓を名乗ることの許しを得、幕府の相伴衆にも任じられるなど、権威的な名分も確保しています。
西の六角氏とは同盟を結び、北の浅井氏と戦うなど、短い統治期間ではありますが、積極的な行動も見せています。

早すぎる病死

このように、義龍が統治している期間中は美濃は非常に安定しており、もし義龍が十年、二十年と健康であったならば、美濃の有力な人物が離反することもなく、難攻不落で知られた稲葉山を拠点とする斉藤氏は、信長という天才を擁した織田氏であっても大きな障害であり続けたでしょう。
義龍の後を継いだ龍興は、竹中重治にわずかな手勢で城を落とされるなどの逸話もあり、とうてい統治者の器ではなかったといわれておりますが、もう十年、父の下で経験を積ませてもらえたならばあるいは何かが変わったかもしれません。
龍興が家督を継いだのが十四歳。謙信や信玄が初陣したのもそのくらいではありますが、それは天才の話。龍興は凡将でしかなかったかもしれませんが、だからこそ、十年待ってくれれば平凡な君主にはなれたかもしれません。
1561年、左京太夫の官位を与えられたのと同じ年、三十五歳で病没。
桶狭間の合戦に勝利して勢いに乗る信長にとって、絶好の時期にいなくなってくれたことになります。
斎藤義龍 辞世の句です。

三十餘歳 守護人天 刹那一句 佛祖不傳

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