高橋紹運 辞世の句です。

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戦国武将 辞世の句

紹運が討ち死にした岩屋城申の丸跡には、家臣の子孫たちによって建立された「嗚呼壮烈岩屋城址」という石碑があり、現在でも彼と彼の家臣763名の命日である7月27日には、縁者によって追悼供養が営まれているほどです。
勇壮忠義の武士、高橋紹運は、1548年に、豊前国で、吉弘鑑理の次男として生まれました。
紹運が生きた時代は、戦国時代の終わりから、安土桃山時代にかけての戦乱の時代でした。
紹運が生まれた当時の九州は、群雄が乱立し覇を競っていました。そんな時代に生まれた紹運の初陣は、十三歳のとき、1561年の毛利氏との第四次門司城の戦いでした。

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忠義の武士!高橋紹運

高橋紹運は、父の吉弘鑑理が、大友氏の重臣であったため、紹運も当然、大友氏の家臣となります。
1567年、大友氏の家臣だった高橋鑑種が、豊前国、筑前国、肥前国などの国人と連合して謀反を起こすという事件が発生しました。
現在の福岡県東部、西部、佐賀県、長崎県のほとんどが、反大友氏に立ったのですが、紹運親子はこれに加わらず、反対に親子で出陣し、これを鎮圧しました。
このときの忠義と武勲を認められ、翌々年の1569年に、紹運は二十一歳の若さで、岩屋城と宝満城の二つの城の主になっています。
この城主就任を機に紹運は、大友氏から北九州の軍権を任されていた立花道雪の補佐役となり、北九州各地を転戦し、平定に努めました。
しかし、このころから、名君とうたわれた主君の大友氏のキリスト教傾倒が激しくなり、内政をおろそかにし始めます。その影響で、1578年には、耳川の多戦いで、薩摩国の島津氏に大敗し、大友氏の有力な武将が多数戦死し、他国に侵略を許すようになりました。
いったん劣勢になれば、沈む船からネズミが逃げ出すように、裏切り者が出るのは戦国の定石です。
当然のことながら、耳川の戦いに敗れ、劣勢になった大友氏を裏切るものが出てきます。
その筆頭が、前当主の代からの筆頭家老、北原鎮久でした。
大友氏を見限った鎮久は、紹運も大友氏を見限るように働きかけましたが、紹運は決して聞き入れず、これを反対に制圧します。

主君だけではない!女性への誠実さ

紹運の女性への誠実さを示すエピソードとして有名なのが嫁取りです。
北九州各地を転戦したていために、紹運は婚約者との結婚ができない状況でした。紹運の婚約者は美しい女性でしたが、この間に疱瘡にかかり、一命は取り留めたものの、顔や体にみにくい跡が残ってしまったのです。婚約者の父は紹運に、婚約の破棄を申し出ました。
しかし、紹運は、「私は彼女の容姿を愛したのではない。彼女の美しい心を愛したのだ」と言ってそれを退け、彼女を正妻に迎えました。主君だけではなく、女性にも誠実な男でした。

壮烈なる戦死!岩屋の戦い

年月を重ねるにつれ大友氏の軍勢は、劣勢になっていきます。1584年、薩摩の島津氏の圧力が強くなってくる中で、紹運と道雪は大友氏から筑後への出兵を要請されました。
二人は両家を合わせて五千の兵で筑後の猫尾城へと向かいます。行く手に待ち構える、秋月、筑紫、草野、星野といった軍勢を撃破しての遠征でした。
そして、同年9月1日、ついに猫尾城を落城させ、そのまま筑後の諸城を攻略、落城させましたが、不穏な動きは続いたため、紹運と道雪たちは、にらみを効かせるために、そのまま筑後川沿いに布陣して年を越しました。
そして、年が明けた1585年の2月から4月にかけて、紹運と道雪たちは、9800の軍勢で、備前、筑前、豊前連行軍、およそ3万の軍勢と激戦を重ね、これを退けます。
3倍の軍勢を退けたのは、敵陣に援軍到着の虚報を流し、退路に援軍の旗を立てて、混乱を誘うなど、常に力だけではなく策略を使った勝利でした。
しかし、この年の9月に道雪が病死してしまいます。そして、これに乗じた筑紫勢に、国元の宝満城を奪取されてしまった紹運は、筑後遠征を中止して国元に帰らざる得なくなりました。
何とか宝満城を奪還した紹運ですが、翌年、1586年には、薩摩の島津氏が大友氏を滅ぼすべく、岩屋城と宝満城がある大宰府へ北上してきました。
紹運は、守りの薄い岩屋城で籠城しての徹底抗戦を決意します。寄せ手、5万、守り手、総大将紹運以下743名の戦いでした。
その様子は北肥戦記に「合戦数度におよびしかども、当城は究意の要害といい、城主は無双の大将といい、城中僅かの小勢にて5万の寄せ手に対し、更に優劣なかりけり」と記されています。
しかし、いかに紹運が勇壮で知略に長けていようと、数の差には勝てません。戦いは二週間におよび、紹運以下743名は、全員討ち死。高橋紹運、享年三十九歳でした。
岩屋城が落城し、全員が討ち死にしたのち、攻め手の総大将、島津忠長によって、紹運以下の首実検が行われました。
忠長は座っていた几帳を離れ、紹運の首の前に正座し、「われわれは、たぐいまれなる名将を殺してしまった。紹運殿は戦神の化身のようであり、その戦功と武勲は他にはない。もし彼の友となれたなら、最高の友となれたであろう」と涙しながら、手を合わせたと伝えられています。
高橋紹運 辞世の句です。

屍をば 岩屋の苔に埋めてぞ 雲井の空に 名をとどむべき

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