本多忠勝 辞世の句です。

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戦国武将 辞世の句

本多忠勝は、松平広忠家臣本多忠高の長男として三河に生まれました。幼名を平八郎といいます。
三河譜代の最古参の生まれで幼い頃から徳川家康に仕え、十三歳で初陣を飾り初首は十五歳の時です。今川氏真の武将の小原備前と戦ったとき、叔父の忠真が倒した敵の武将の首を忠勝に与えて武功を飾らせようとしましたが、忠勝は「我何ぞ人の力を借りて、以て武功を立てんや」と言って自ら敵陣に駆け入り敵の首を挙げた強者です。
その武勇を家康からも認められ、「ただ、勝つ」という意味を込めて忠勝と名乗りました。
十九歳にして同年齢の榊原康政や本多正重、都築秀綱らとともに旗本先手役に抜擢されています。戦闘に出陣した数、五十数回になる勇将で徳川四天王の一人となりました。
武田信玄が1572年に大軍を率いて遠江に侵攻したときに、家康は三千の兵を率いて偵察に出たところ、たちまち発見され、一言坂に追い詰められます。忠勝は殿軍を務め、抜群の働きを果たし、家康本隊を無事に浜松城に撤退。敵軍である武田軍も忠勝の武勇を褒め称えました。
忠勝は姉川の戦いも参加しています。姉川の戦いでは徳川軍は劣勢でした。しかし、榊原康政の横槍によって朝倉軍が一瞬崩れたところ、それを好機と見た忠勝は朝倉軍一万に対して無謀とも思える単騎駆けを敢行します。家康は忠勝を救おうと本隊を動かします。必死に忠勝を救おうとする家康軍の行動が反撃となって朝倉軍を討ち崩しました。のちに信長にさえ「花も実も兼ね備えた勇士」とたたえられています。
1582年本能寺の変の直後、堺に滞在していた徳川家康は切腹しようとしましたが、忠勝はそれを思いとどまらせて、伊賀越えを進言。家康を無事に岡崎に帰しました。
小牧・長久手の戦いで、数万の軍勢をたった三百騎で食い止めようとした胆力に秀吉からも「東に本田平八郎あり、西に立花宗茂あり」と賞賛されています。
忠勝は一尺二寸五分の穂先に一間半の柄をつけた「蜻蛉切(とんぼきり)」という名槍を軽々と振りまわし、五十あまりの戦歴を持ちながらもかすり傷一つも受けたこともなかったと伝えられています。
「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の首(からのかしら、から牛の尾を飾りにつけた兜)に本多平八」と世間からいいはやされるほどでの武将でした。
本多忠勝 辞世の句です。

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死にともな 嗚呼死にともな 死にともな 深きご恩の君を思えば

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