本多正信 辞世の句です。

スポンサーリンク
戦国武将 辞世の句

本多正信は、1538年に本多俊正の次男として三河で生まれました。通称として弥八郎とも呼ばれます。「徳川二十将」の一人と言われています。四十石の鷹匠として徳川家康に仕え、桶狭間の戦いの際に今川義元の命で丸根砦を攻める家康に従い参戦しました。
三河一向一揆が起こると家康とは敵として戦います。一揆が鎮圧されると、徳川氏を出奔して松永久秀に仕えました。久秀からは「剛にあらず、柔にあらず、卑にあらず、非常の器である」と評価されたといわれています。
その後、松永久秀のもとを去り、加賀一向一揆に参加。正信が家康の懐刀になるまでに長らくの間、各地を放浪しています。諸国を流転して十九年。大久保忠世のとりなしにより徳川家に帰参しました。
民政の分野で文官、特に行政官として才能を発揮して甲斐奉行を務めました。以降は徳川家康の側近、秘書となり、徳川家中の人事異動にも関わります。
1590年に徳川家が関東に転封になったことに伴い相模玉縄にて一万石を拝領しました。併せて関東総奉行兼町奉行に任命され、豊臣秀吉が死去した頃から正信は家康の軍師格として辣腕をふるいます。
関ヶ原で勝利した家康が江戸幕府を開くと正信はさらに頭角を現し、幕政の中心人物となります。本願寺の勢力を弱めるために本願寺の分裂を画策。しかし、かつての豊臣政権での石田三成と武断派の確執のように、本多忠勝、榊原康政など武断派には嫌われていたようです。
家康からは家臣ではなく友と呼ばれるほどの間柄でしたが、加増を望まず石高はわずか二万二千石に過ぎませんでした。
徳川秀忠が二代将軍に就任したとき老中に就任。駿府に居を構えた家康に仕える長男・本多正純と連係して、江戸と駿府の二元政治を支えました。
正信は徳川秀忠から多大なる信頼を受け、徳川秀忠の時代の国政から軍事まで陣頭を取ります。大坂の陣では徳川秀忠の下で参戦し、大坂城の堀埋め立てに携わりました。大坂の陣の発端となった豊国神社の国家安康 君臣豊楽に関する進言を行ったといわれています。
1616年4月、家康が没するとようやく家督を息子の本多正純に譲り、わずか二ヶ月後、家康の後を追うように七十九歳で亡くなりました。
正信が嫡子の本多正純に「三万石までは受けてもいいが、それ以上の石高は辞退しろ。さもなくば身を滅ぼす」と言い遺しましたが、正純は家督を継ぐと十五万五千石への加増を受け入れます。後に「宇都宮釣り天井事件」で徳川秀忠の暗殺疑惑をかけられ、失脚を余儀なくされてしまいました。
本多正信 辞世の句です。

スポンサーリンク

臣が微労を思召されて宗祠を在し給はんと思召さば 願わくば臣が子正純の封邑を増し賜ふことなかれ

コメント

タイトルとURLをコピーしました