戦国の世に、「美濃のマムシ」と恐れられた斎藤道三。その息子でありながら、父からは「暗愚」と評され、疎まれた武将がいました。斎藤義龍(さいとう よしたつ)です。しかし、彼は父の評価を覆す軍才と統治能力を発揮し、父を討って美濃の国主となります。もし彼が長生きしていれば、織田信長の天下統一への道は大きく変わっていたかもしれません。父殺しの汚名を背負い、わずか三十五年で駆け抜けた生涯の終わりに、彼はどのような言葉を遺したのでしょうか。
父との相克 – 美濃の支配者へ
疎まれた長男
1527年、斎藤義龍は道三の長男として生を受けました。しかし、父・道三の愛情は弟の孫四郎や喜平次らに注がれ、義龍は「無能」の烙印を押され、冷遇されていたと言われます。父子の確執は、1554年に道三が隠居し義龍が家督を継いだ後も続きました。道三は義龍の廃嫡を画策し、孫四郎を後継者にしようとし、喜平次には名門・一色氏を継がせます。追い詰められた義龍は、翌年、先手を打って弟二人を殺害。父との決定的な対立へと突き進むことになります。
長良川の決戦
1556年、ついに父子が戈を交える時が来ます。長良川の戦いです。兵力は義龍側が一万七千に対し、道三側はわずか二千七百。圧倒的優位に立った義龍は、この戦いで父・道三を討ち取りました。この兵力差の背景には、道三が権力を握る過程で行った数々の謀略や非道に対する、美濃国人衆の根強い反発があったとされています。「美濃三人衆」と呼ばれる稲葉良通、安藤守就、氏家直元といった有力家臣も皆、義龍に味方し、道三のもとにはほとんど人材が残っていませんでした。道三の娘・帰蝶(濃姫)を娶っていた織田信長は、舅である道三を救うべく援軍を送りますが、間に合いませんでした。義龍軍は道三を討った後、信長の軍勢にも攻撃を仕掛け、これを退けています。この勝利により、義龍は名実ともに美濃の支配者となったのです。
守護者としての顔
暗愚にあらず
道三は生前、「わが子らは(織田)信長の門前に馬をつなぐことになるだろう」と語り、義龍の器量を低く見ていたと伝えられています。しかし、義龍が美濃を治めていた間、信長は何度か美濃への侵攻を試みますが、ことごとく撃退され、手出しができない状態が続きました。皮肉なことに、道三自身も長良川の戦いの直前、義龍の戦いぶりを見て、自身の息子に対する評価が誤っていたことを後悔したとも言われています。身長が六尺五寸(約197cm)もあったという巨漢で、父殺しの経緯から、粗暴な武将というイメージを持たれがちですが、その統治は決して力任せではありませんでした。
安定した統治と外交
義龍は、家臣団による合議制を導入するなど、巧みな統治手腕を発揮しました。父・道三とは異なり、彼の治世下では重臣の離反もなく、美濃は安定していました。外交面でも、足利義輝から一色姓を名乗ることを許され、幕府の相伴衆にも列せられるなど、中央の権威との結びつきを強めます。また、西の六角氏と同盟を結び、北の浅井氏と戦うなど、積極的な外交・軍事行動を展開しました。短い期間ではありましたが、彼は紛れもなく有能な戦国大名だったのです。
早すぎる死と歴史のif
天才を阻んだ壁の崩壊
義龍による安定した統治は、隣国・尾張の織田信長にとって大きな脅威でした。難攻不落と謳われた稲葉山城を拠点とし、有能な家臣団に支えられた斎藤氏が健在である限り、信長の美濃攻略は困難を極めたでしょう。しかし、1561年、義龍は突如病に倒れ、左京大夫の官位を授与された同じ年に、わずか三十五歳でこの世を去ります。前年に桶狭間の戦いで今川義元を破り、勢いに乗っていた信長にとって、これほど都合の良い展開はありませんでした。
若き後継者
義龍の後を継いだのは、まだ十四歳の息子・龍興でした。後に竹中半兵衛にわずかな手勢で稲葉山城を乗っ取られるなど、統治者としての器量に欠けていたと評されます。もし父・義龍があと十年長生きし、龍興が父のもとで経験を積む時間があったなら、美濃の、そして日本の歴史は大きく変わっていたかもしれません。
辞世の句に刻まれた覚悟
父を殺し、若くして国の命運を背負い、そして志半ばで病に倒れた義龍。彼は死を前にして、このような句を遺しました。
「三十餘歳(さんじゅうよさい) 守護人天(しゅごじんてん) 刹那一句(せつないっく) 佛祖不傳(ぶっそふでん)」
この漢詩には、彼の複雑な胸中が凝縮されているように思えます。
- 「三十餘歳 守護人天」
三十数年の短い生涯であったが、自分は民とこの国(人天)を守り抜いてきたのだ。 - 「刹那一句 佛祖不傳」
死の間際(刹那)に遺すこの一句(あるいは悟りの境地)は、仏や祖師が説くような言葉(教え)では伝えられない(ほど深いものである)。
ここには、父殺しという重い業を背負いながらも、国主として美濃を守り抜いたという強い自負が感じられます。そして、その生涯と死に臨んで得た境地は、既存の仏教的な教えや倫理観では測れない、自分独自のものであるという、ある種の開き直りにも似た覚悟が示されているのかもしれません。「佛祖不傳」には、言葉を超えた境地という意味と同時に、父殺しの業を抱えた自身の生涯は仏法の因果からも外れるのだ、という叫びが込められているようにも解釈できます。
義龍の生涯から学ぶ
斎藤義龍の激しくも短い生涯は、現代を生きる私たちにもいくつかの大切なことを教えてくれます。
- 他者の評価に惑わされない: 父から「暗愚」と評されながらも、自身の能力を信じ、行動でそれを証明した義龍の姿は、周囲の評価や期待に一喜一憂せず、自分の道を歩むことの大切さを示しています。
- 短い時間で何を成すか: わずか三十五年という短い生涯でしたが、義龍は美濃の国主として確かな足跡を残しました。人生の長さではなく、その密度や、限られた時間の中で何を成し遂げようとしたかが重要であると教えてくれます。
- 己の業と向き合う: 父殺しという、決して消えることのない業を背負いながらも、彼は国を守るという責任から逃げませんでした。自分の過去や選択と向き合い、その上で前を向いて生きる覚悟の必要性を感じさせます。
結び
父殺しの汚名、父を超える統治者としての実績、そして早すぎる死。斎藤義龍の生涯は、光と影が色濃く交錯するものでした。彼の辞世の句は、短いながらも全力で国を守った者の誇りと、業を背負った者の複雑な心情を静かに、しかし力強く伝えています。歴史の「もしも」を強く感じさせる彼の生き様と最後の言葉は、私たちの心に深く響き、人生について考えるきっかけを与えてくれるでしょう。
この記事を読んでいただきありがとうございました。
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