武田信玄 辞世の句です。

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戦国武将 辞世の句

甲斐(山梨県)の守護の家柄で信虎の子、名は晴信です。(信玄とは出家後の法名)
父、信虎は十四歳で後継者争いに勝ち武田家の家督を継ぐと、わずか一年で甲斐一国の統一に成功したほど戦上手でした。
しかし戦いに明け暮れたため、税を徴収される領民や家臣の不満が最高潮に達していました。二十一歳の信玄は、家臣とともに信虎を駿河に追放して国主になります。
民政に力を入れ、なによりも民衆の立場に立ち、国を富ませることを第一としました。山国の貧しい甲斐の領土開発を行い、政治家としても優れた手腕を発揮しています。“人は城、人は石垣、人は堀。”とうたわれるように、生い立ちや身分に関係なく能力のある武将を積極的に採用しました。
軍事面では強い軍団をつくるために家臣の守るべき『甲州法度』とよばれる五十五ヶ条の細かい規則をつくります。
家臣達の組織や普段の訓練に気を配り、戦陣にはつきものの“ばくち”や略奪を厳しく取り締まりました。
さらに抜け駆けの功名争いなども禁止して、統制ある軍隊をつくりあげます。
屈強な武田騎馬軍団を率いて近隣諸国を攻略。「甲斐の虎」の異名を取りました。
越後国の上杉謙信とは対立。五回にわたり川中島で戦います。とくに四回目の戦いが多くの将兵を失う激戦でした。
晩年の信玄は京都を目指して上洛の軍を起こします。三方ヶ原で徳川勢を破りましたが、信玄は病になり療養のため甲斐に引き返します。帰路の途中、信州の伊那駒場で五十三歳の生涯を閉じました。
生涯における合戦の数は百三十あまり、その戦略や政策は信長や家康に受け継がれています。
武田信玄 辞世の句です。

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大ていは地に任せて肌骨好し紅粉を塗らず自ら風流

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