戦国時代の九州を席巻し、関ヶ原の戦いでは敵中突破という離れ業を演じ、「鬼島津」として敵味方から恐れられた猛将、島津義弘。しかし、その勇猛なイメージの裏には、家臣を深く慈しみ、敵兵の冥福をも祈る、人間味あふれる素顔がありました。今回は、85年の長い生涯を駆け抜けた義弘の生き様と、彼が最期に残した辞世の句に込められた想いを探ります。
智勇兼備の将 – 九州での躍進
島津貴久の次男として生まれた義弘は、兄・義久、弟・歳久、家久と共に「島津四兄弟」と称され、兄を支え島津家の発展に尽力しました。初陣である岩剣城(いわつるぎじょう)攻めでは、日本で初めて鉄砲を実戦で本格的に使用したとも言われる戦いで軍功を挙げ、その名を轟かせます。
彼の戦歴の中でも特筆すべきは「木崎原(きざきばる)の戦い」です。約300の兵で、約3000もの伊東義祐軍を迎え撃ち、得意の「釣り野伏せ(つりのぶせ)」戦法(※囮部隊が敗走を装い、伏兵がいる地点まで敵を引き込み包囲殲滅する戦術)を用いてこれを撃破。兵力差10倍を覆したこの勝利は「九州の桶狭間」とも呼ばれ、島津家の九州南部における覇権を大きく前進させました。
さらに「耳川の戦い」では、九州統一を目指す大友宗麟の大軍を壊滅させ、大友家を衰退に追い込みます。義弘の武勇と戦術眼は、島津家躍進の原動力となっていったのです。
天下人との対峙、そして関ヶ原へ
しかし、快進撃を続ける島津家の前に、天下統一を進める豊臣秀吉が立ちはだかります。秀吉による九州征伐軍に対し、義弘は「根白坂(ねじろざか)の戦い」で奮戦するも衆寡敵せず敗北。兄・義久の降伏に従い、自身も秀吉に下りました。その後、義久から家督を譲られ(形式上)、大隅国を与えられます。
そして運命の関ヶ原の戦い。義弘は西軍に属しますが、戦局は東軍有利に進み、西軍は総崩れとなります。退路を断たれた島津軍約1500。絶体絶命の中、義弘は驚くべき決断を下します。敵の大軍がひしめく前方、徳川家康本陣のすぐ脇を突破して撤退するという前代未聞の作戦です。
「捨て奸(すてがまり)」と呼ばれる壮絶な戦術(※小部隊が足止め役となって死ぬまで戦い、本隊の撤退時間を稼ぐ)を用い、多くの犠牲を払いながらも、義弘は追撃する福島正則や井伊直政らを振り切り、敵中突破に成功。この「島津の退き口」は、彼の名を不滅のものとしました。
家臣に愛された人情家
「鬼島津」と恐れられた義弘ですが、その素顔は驚くほど人情味にあふれていました。激しい戦いの後には、敵味方の区別なく戦死者を供養するため「六地蔵塔」を建立したと伝えられています。戦場で散った命への深い慈悲の念がうかがえます。
そして何より、家臣とその家族を非常に大切にしました。こんな逸話が残っています。
- 部下の子供たちに会うことを楽しみとし、一人ひとりに声をかけました。
- その際、子供たちの父親がいつ、どのような手柄を立てたかを全て記憶しており、それを子供に伝えて褒めました。「おまえの父はあの時、見事な働きをした。だがおまえの顔を見れば、父を超える器だとわかるぞ。励め」と。
- 逆に、あまり手柄を立てられなかった家臣の子には、「おまえの父は運に恵まれなかったが、おまえは父の分まで手柄を立てる顔をしている。期待しているぞ」と励ましました。
このような、一人ひとりの状況に合わせた細やかな心配りと励ましの言葉に、子供だけでなく親たちも深く感動し、義弘への忠誠心を一層強くしたといいます。義弘自身も常々「今の島津があるのは、全て家臣たちの働きのおかげだ」と語っていたそうです。
義弘が亡くなった際、当時禁止されていたにも関わらず13名の家臣が殉死したことは、彼がいかに深く慕われていたかの証左と言えるでしょう。
辞世の句 – 無常の関路
関ヶ原の後、家康から許された義弘は、大隅の加治木に隠居し、85歳でその波乱に満ちた生涯を閉じました。彼が残した辞世の句は、長い人生で培われた深い無常観を映し出しています。
春秋(しゅんじゅう)の 花も紅葉(もみじ)も とどまらず
人も空(むな)しき 関路(せきじ)なりけり
(意訳:春の桜も秋の紅葉も、美しく咲き誇ってもやがては散り、留まることはない。人もまた同じように、この儚い人生という関所のような道を、ただ空しく通り過ぎていくのだなあ。)
「春秋の花も紅葉も」は、美しさの象徴であると同時に、移ろいゆく季節、そして人生の儚さを表します。「とどまらず」という言葉が、その無常さを強調します。そして「人も空しき」と、その自然の摂理を人間の命に重ね合わせ、「関路」という言葉で人生を表現します。関所は、誰もが必ず通過しなければならない場所であり、旅の途中の一地点に過ぎません。人生もまた、様々な出来事があるけれども、結局は誰もが通り過ぎていく儚い道である、という諦念にも似た静かな境地が感じられます。
数多の戦場を駆け抜け、多くの死を見つめ、家臣への深い愛情を注ぎ、85年の長寿を全うした義弘だからこそ至り得た、深い無常観と人生への達観が、この句には込められているようです。
強さと優しさ、そして感謝
島津義弘の生き方と辞世の句は、現代を生きる私たちに多くの示唆を与えてくれます。
- 真のリーダーシップ: 義弘の姿は、厳しさや強さだけでなく、深い慈愛や感謝の心を持つこと、一人ひとりを大切にすることが、人を動かし、組織を強くする上でいかに重要かを示しています。「鬼」の顔と「慈父」の顔を併せ持つ、その在り方に学びたいものです。
- 人を育てる言葉の力: 部下の子供たちへの声かけのエピソードは、相手を認め、期待をかける言葉がいかに人の心を打ち、成長を促すかを示唆します。これは、家庭や職場など、あらゆる人間関係において応用できる教訓です。
- 継続することの価値: 一時的な配慮はできても、義弘のように長年にわたり、多くの人々に対して細やかな心配りを続けることは容易ではありません。真の信頼関係は、日々の地道な積み重ねによって築かれることを教えてくれます。
- 人生という旅を受け入れる: 彼の辞世の句は、人生の成功や失敗、喜びや悲しみに一喜一憂するだけでなく、それら全てを含んだ「人生」という旅そのものを、あるがままに受け入れる視点を与えてくれます。
戦国の世を駆け抜け、多くの人々から慕われた島津義弘。彼の遺した言葉は、時代を超えて、私たちがより良く生きるためのヒントを与えてくれるのではないでしょうか。
この記事を読んでいただきありがとうございました。
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