「万代(よろずよ)と いはひ来(き)にけり 会津山 高天(たかま)の原の 住み家求め」
この歌は、「槍の弾正(やりのだんじょう)」と称えられた戦国武将、保科正俊(ほしな まさとし)が遺したとされる辞世の句です。武田信玄、勝頼に仕え、武田家滅亡後は北条、そして徳川家康と主家を変えながらも、その武勇と巧みな処世術で激動の時代を生き抜き、後の会津松平家の礎を築いた正俊。八十三年という長い生涯の終わりに、彼はどのような境地に至ったのでしょうか。
槍の弾正、激動の生涯 – 保科正俊の軌跡
保科正俊は、信濃国(現在の長野県)の国衆・保科正則の子として生まれました。当初は高遠城主・諏訪頼継の家老として、信濃に侵攻してきた武田信玄と戦います。しかし、信玄の勢いは凄まじく、主君・頼継は甲府で自刃。正俊ら家臣団は、知行を安堵される形で武田家の家臣となり、信玄・勝頼の二代に仕えることになります。
武田家臣団の中では、その槍働きによって「槍の弾正」と称えられ、「逃げの弾正」高坂昌信、「攻めの弾正」真田幸隆(※諸説あり)と共に「三弾正」の一人に数えられるほどの武勇を誇りました。しかし、信玄亡き後、長篠の戦いでの大敗などを経て武田家は衰退。正俊は体調を崩し家督を息子・正直(まさなお)に譲り、自身は次男が養子に入った内藤昌豊(の養家)が守る箕輪城に隠居します。
武田家が織田・徳川連合軍によって滅ぼされると(高遠城も落城)、保科親子は一時姿をくらましますが、その後、関東の雄・北条氏を頼り、一時的に高遠城を奪還するなどの動きを見せます。本能寺の変後、甲斐・信濃の支配権を巡って徳川家康と北条氏が対立すると(天正壬午の乱)、正俊は徳川方の酒井忠次を通じて家康に帰属。ついに安住の地を得ることになるのです。
徳川の臣として – 保科家繁栄の礎を築く
徳川家康の家臣となったことで、保科家の運命は大きく開けます。息子・正直が家康の異父妹を娶ったことで、保科家は徳川家の外戚(親戚)となり、高遠の所領も安堵されました。これにより、戦国を生き抜いた保科家の地位は確固たるものとなります。
晩年の正俊も、その武勇は衰えを知りませんでした。徳川家から離反した石川数正らが攻めてきた際(※鉾持除の戦と伝わる)、息子や孫(正光)が出陣中で手薄になった高遠城を、老将・正俊が少ない兵で見事に守り抜き、大勝したと伝えられています。まさに「槍の弾正」の面目躍如たる活躍でした。
正俊は八十三歳でその生涯を閉じますが、彼が築いた礎の上に、保科家はさらなる発展を遂げます。孫の正光は、関ヶ原の戦いや大坂の陣での功績により、高遠藩二万五千石の初代藩主となりました。さらに正光は、二代将軍・秀忠の庶子である幸松(後の保科正之)を養子に迎えます。この正之が後に会津藩主となり、名君として知られ、その子孫が幕末の会津藩主・松平容保へと繋がっていくのです。
武勇と処世、八十三年の道のり – 正俊の人物像と心情
保科正俊の生涯は、まさに戦国乱世の縮図のようです。槍働きで名を馳せる武勇を持ちながらも、主家を失い、時勢を読んで新たな主君を求め、巧みに生き抜く処世術も兼ね備えていました。武田、北条、徳川と主を変えながらも、それぞれの主君のもとで忠勤に励み、特に徳川家臣となってからは、老いてなお武功を挙げるなど、その実直さと武人としての矜持を示しています。
八十三年という長い人生の中で、彼は何を思い、感じてきたのでしょうか。武田家への忠誠、滅亡の悲哀、先の見えない不安、そして徳川の世でようやく得た安堵感。息子や孫が家名を高めていく姿を見届け、自らが築いたものが未来へと繋がっていくことに、深い満足感を覚えていたのかもしれません。
万代への祈り – 辞世の句に込められた想い(伝)
「万代(よろずよ)と いはひ来(き)にけり 会津山 高天(たかま)の原の 住み家求め」
(保科家が万代までも続くようにと祝い(祈り)続けてきた。これからは(その会津の山のような高みを目指すのではなく)高天原(天上の世界)に安住の地を求めよう)
この句は保科正俊のものとして伝えられていますが、「会津山」という言葉が含まれるため、実際に保科家が会津に移るより前の時代の正俊作とするには疑問も残ります(※後に会津藩主となる養子の保科正之の作とも言われます)。しかし、仮に正俊の作として解釈するならば、次のような想いが読み取れるかもしれません。
「万代と いはひ来にけり」の部分は、自身が生涯をかけて保科家の安泰と繁栄(万代)を祈り、努力してきたことへの述懐でしょう。「会津山」は、将来、子孫がたどり着くであろう繁栄の高み(後の会津藩)を象徴的に示しているのかもしれません。そして「高天の原の住み家求め」で、地上での役目を終え、これからは安らかな天上の世界(高天原)に終の棲家を求める、という穏やかな心境を表していると解釈できます。長い戦乱の世を生き抜き、家の礎を築いた満足感と、安らかな眠りへの希求が感じられるようです。
保科正俊の生き方が現代に伝えること
保科正俊の波乱に満ちた生涯は、現代を生きる私たちにも多くの示唆を与えてくれます。
- 変化への適応力: 激動の時代において、状況の変化を読み、柔軟に主家を変えながらも生き抜いた適応力と現実主義。
- 継続する力(礎を築く): すぐに結果が出なくとも、次世代のために基盤を作り、家名を繋いでいくことの重要性。
- 生涯現役の精神: 老いてもなお、その能力(武勇)を発揮し、役割を果たそうとする姿勢。
- 武と文(処世)のバランス: 単なる武勇だけでなく、政治的な判断力や交渉力も生き残るためには必要であること。
- 長い人生の末の境地: 多くの困難を乗り越えた末にたどり着く、安寧を求める穏やかな心境。
終わりに
「槍の弾正」保科正俊は、その武勇と巧みな処世術で戦国乱世を生き抜き、名門・会津松平家へと繋がる保科家の礎を築いた、隠れた功労者と言えるでしょう。彼の八十三年の生涯は、変化に対応し、忍耐強く未来への種を蒔き続けることの大切さを教えてくれます。伝えられる辞世の句には、長い人生を全うした者の、静かな満足感と安らぎへの願いが込められているようです。
この記事を読んでいただきありがとうございました。
コメント