「何事も 移ればかわる 世の中を 夢なりけりと 思いざりけり」
この歌は、戦国時代の激流を乗り越え、真田家を江戸時代へと繋いだ大功労者、真田信之(さなだ のぶゆき)が遺した辞世の句です。父・昌幸や弟・信繁(幸村)の華々しい武勇伝の影に隠れがちですが、信之は卓越した知謀と忍耐力で、戦国の世から泰平の世へと移り変わる困難な時代を生き抜き、真田家を守り抜きました。九十三歳という長寿を全うした彼が、その長い生涯の終わりに得た境地とは、どのようなものだったのでしょうか。
真田家存続の礎 – 信之、試練の始まり
真田信之(当初は信幸)は、智謀の将として名高い真田昌幸の長男として生まれました。父・昌幸が仕えた武田信玄への忠誠の証として、幼少期は人質として甲府で過ごしますが、丁重に扱われ、文武両道の教育を受けたとされます。武田家滅亡後は、父・昌幸と共に織田、上杉、北条、徳川と主家を転々としながら、真田家の存続を図るという、不安定な青年期を送りました。
1585年の第一次上田合戦では、二十歳にして父と共に徳川の大軍を寡兵で打ち破るという武功を挙げます。この戦いぶりは、敵方の徳川家康にも強い印象を与えたと言われています。その後、豊臣秀吉の仲介で真田家が徳川に仕えることになると、家康は信之の器量を高く評価し、重臣・本多忠勝の娘である小松姫(稲姫)を養女として信之に嫁がせました。これは真田家を取り込むための政略結婚でしたが、信之と小松姫は夫婦仲睦まじく、多くの子宝にも恵まれました。
関ヶ原、苦渋の決断 – 家族と家名の狭間で
真田家にとって最大の試練は、関ヶ原の戦いを前に訪れます。天下分け目の戦いを前に、父・昌幸と弟・信繁は豊臣方(西軍)に、そして徳川家康の養女を妻とする信之は徳川方(東軍)に、それぞれ味方することを決断。真田家は、家名存続のために、あるいは縁戚関係から、親子兄弟が敵味方に分かれるという苦渋の選択を迫られたのです。
この時、東軍として中山道を進む徳川秀忠(家康の嫡男)の軍勢三万八千を、昌幸・信繁親子はわずか二千余りの兵で上田城に引きつけ、足止めに成功します(第二次上田合戦)。結果として秀忠は関ヶ原の本戦に遅参し、家康の激怒を買いました。この出来事は、後に信之が秀忠から冷遇される遠因となります。
関ヶ原で西軍が敗れると、父と弟は死罪を命じられます。しかし、信之は妻の父である本多忠勝と共に必死に助命嘆願を行い、死一等を減じて高野山への流罪(蟄居)という処分に留めることに成功しました。敵方についた父と弟の命を救うために奔走する信之の姿は、彼の家族への深い情愛を示しています。
徳川の世を生き抜く – 忍耐と長寿
関ヶ原の後、信之は徳川への忠誠を示すため、父・昌幸の「幸」の字を避け、「信之」と改名します。しかし、第二次上田合戦で煮え湯を飲まされた秀忠の恨みは根深く、信之は父祖伝来の地である上田から、松代(現在の長野市松代町)への移封を命じられます。これは明らかに嫌がらせであり、信之にとっては耐え難い屈辱であったはずですが、彼は真田家の存続という大局を見据え、黙ってこれに従いました。
信之の真骨頂は、この「忍耐」と、特筆すべき「長寿」にあります。「人生五十年」と言われた時代に、九十三歳まで生き抜いたのです。彼は初代将軍・家康、二代・秀忠、そして三代・家光の治世までを見届け、激動の時代を乗り越えて松代藩十万石の基礎を築き上げました。父や弟のような華々しさはありませんが、彼の深謀遠慮と忍耐なくして、真田の名が後世に残ることはなかったでしょう。
知勇と忍耐の人 – 信之の人物像と心情
真田信之は、父譲りの知謀と武勇(第一次上田合戦などで証明済み)を持ちながらも、それ以上に、状況を冷静に判断し、耐え忍ぶことのできる「忍耐」の人でした。家族への情は深く、関ヶ原では敵味方に分かれながらも、戦後処理では父弟の助命に全力を尽くしました。
徳川政権下では、常に父や弟の影(特に秀忠からの個人的な恨み)を意識し、細心の注意を払って行動する必要がありました。移封などの理不尽な扱いにも耐え、真田家を守り抜くという強い意志を持ち続けた彼の心中には、計り知れない苦労と葛藤があったことでしょう。しかし、その一方で、九十三年という長い年月を生き、時代の大きな移り変わりを見届けたことで、物事を達観する境地に至っていたのかもしれません。
九十三年の生涯を省みて – 辞世の句に込められた達観
「何事も 移ればかわる 世の中を 夢なりけりと 思いざりけり」
(世の中の万事は、時が経てば移り変わっていくものだ。その様はまるで夢のようだと、(今まで深くは)思わなかったなあ)
この句には、九十三年の長きにわたり、戦国の動乱から江戸の泰平へと、まさに「移り変わる世の中」を目の当たりにしてきた信之の実感が込められています。前半は、世の無常、万物流転という真理を静かに述べています。
後半の「夢なりけりと 思いざりけり」は、やや解釈が分かれる部分ですが、「(今まで)夢のようだとは思わなかった」と読むのが自然でしょう。これは、「夢のように儚いものだと達観できず、現実に一喜一憂し、苦労してきたなあ」という、長い人生への述懐と、ようやく到達した穏やかな諦観・達観の心境を表しているのではないでしょうか。あるいは、「夢のようなものだと、今更ながら気づかされた」という、深い感慨かもしれません。いずれにせよ、激動の時代を生き抜いた末の、静かで深い感慨が伝わってきます。
真田信之の生き方が現代に伝えること
真田信之の生涯と辞世の句は、現代を生きる私たちにも多くの示唆を与えてくれます。
- 長期的な視点と忍耐力: 短期的な成功や名声ではなく、家名存続という長期的な目標のために耐え忍ぶ力は、現代の組織や個人の生き方にも通じるものがあります。
- 困難な状況でのバランス感覚: 家族への情と、政治的な立場や責務との間で、難しい舵取りを迫られた信之の姿は、複雑な人間関係の中で生きる私たちに、バランス感覚の重要性を教えてくれます。
- 逆境を乗り越える強さ: 理不尽な扱いや不遇な状況にあっても、腐らず、自暴自棄にならず、なすべきことを見据えて耐え抜く精神力。
- 経験から得られる知恵と達観: 長い人生経験を通して得られる、物事を大局的に捉え、変化を受け入れることができるようになるという、成熟した人間の姿を示しています。
終わりに
真田信之は、父・昌幸や弟・信繁のような戦場での華々しい活躍こそ少ないものの、その知謀、忍耐力、そして人間的な器量の大きさによって、真田家という舟を激動の時代から泰平の世へと導いた、偉大な航海士でした。彼がいなければ、「真田」の名は伝説の中に消えていたかもしれません。九十三年の長い生涯の末にたどり着いた「何事も移ればかわる」という達観の境地は、変化の激しい現代を生きる私たちにとっても、深く考えさせられるものがあるのではないでしょうか。
この記事を読んでいただきありがとうございました。
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