「三木の干(ひ)殺し」として知られる、戦国史上最も凄惨な籠城戦、三木合戦。羽柴(豊臣)秀吉による執拗な兵糧攻めの前に、播磨国(現在の兵庫県南西部)の名門・別所氏は滅亡しました。この時、城主であった別所長治(ながはる)と共に、二人の弟もまた、城兵の命と引き換えに自らの命を絶ちました。その末弟が、別所治定(べっしょ はるさだ、治忠とも)です。
まだ若く、歴史の表舞台で活躍する機会もほとんどないまま、兄たちと運命を共にした治定。その最期に遺したとされる辞世の句は、兄である長治への深い思慕と、兄なくしてはこの世に生きる意味はないという、あまりにも純粋で、そして悲痛なまでの決意が込められています。
君(きみ)なくば 憂(う)き身の命 何か(に)せむ 残りて甲斐(かい)の 有(あ)る世なりとも
兄たちと共に生きた短い生涯:別所治定
別所治定は、播磨国の有力な戦国大名であった別所安治(やすはる)の三男(または末子)として生まれました。生年は定かではありませんが、兄である長治(永禄元年、1558年生)、友之(永禄3年、1560年生)より年下であり、三木城が落城し自害した天正8年(1580年)には、まだ10代後半、おそらくは18歳前後であったと考えられています。一時期、小林新介(こばやし しんすけ)と名乗っていたとも伝えられています。
治定が物心ついた頃には、別所氏は織田信長の支配下にありましたが、天正6年(1578年)、当主である兄・長治が信長に反旗を翻すという、一族の運命を揺るがす大きな決断が下されます。治定もまた、兄たちと共に、この困難極まる道を選び、羽柴秀吉率いる織田の大軍を相手にした、三木城での籠城戦に身を投じることになりました。
約2年間に及ぶ籠城生活は、想像を絶するものでした。秀吉による徹底的な兵糧攻め(三木の干殺し)により、城内は食料が完全に枯渇し、飢餓地獄と化しました。多くの人々が飢えに苦しみ、命を落としていく様を、若き治定も目の当たりにし、兄たちと共にこの地獄のような日々を耐え忍び、戦い続けたのです。
兄に殉じる最期
しかし、奮戦もむなしく、毛利氏からの援軍も途絶え、城内の飢餓は限界に達します。天正8年(1580年)1月、城主である兄・長治は、これ以上の犠牲を出すことを避けるため、そして城内に残る数千の兵士とその家族たちの命を救うため、秀吉の降伏勧告を受け入れることを決断しました。その条件は、「城主・別所長治、その弟の友之、同じく弟の治定の三兄弟、そして後見役であった叔父・吉親の首を差し出す」というものでした。
同年1月17日、別所治定は、兄・長治(享年23)、兄・友之(享年21)と共に、三木城内の櫓(やぐら)の上で、城兵たちの助命が叶えられることを見届けた後、潔く自刃して果てました。まだ人生これからという若い命が、兄たちと運命を共にする形で、戦国の世に散っていったのです。その短い生涯は、時代の非情さと、過酷な運命の中にあっても揺るがなかった兄弟の深い絆を、私たちに強く印象付けます。
辞世の句に込められた兄への絶対的な思慕
兄たちと共に、自らの命を絶つことを選んだ若き武将、別所治定。その最期に詠まれたとされるのが、「君なくば 憂き身の命 何か(に)せむ 残りて甲斐の有る世なりとも」という句です。
「私にとって、かけがえのない君(=兄であり、当主である長治様)がいらっしゃらないのであれば、この辛く惨めな境遇にある私の命を、いったい何のためにこの世に保っていられようか。いや、生きている意味など全くないのだ。たとえ、この先生き残ることができたとして、その先にどんなに生きがいのある(素晴らしい)世の中が待ち受けていたとしても、兄上なしでは無価値なのだ」。
この句から痛切に伝わってくるのは、兄・長治に対する、絶対的とも言える深い思慕と、揺るぎない忠誠心です。治定にとって、兄・長治は単なる血縁者である以上に、尊敬し、従うべき「君(主君)」であり、自らの存在理由そのものであったのでしょう。「君なくば」という仮定は、治定にとっては受け入れがたい、想像もしたくない未来であり、兄が死を選ぶ以上、自らも迷うことなくその後を追い、共に死ぬことが、唯一の、そして当然の道であると考えていたことが、ひしひしと伝わってきます。
「憂き身」という言葉には、飢餓に苦しんだ籠城生活の辛さや、名門別所家が滅び、自らも若くして死なねばならないという過酷な運命への深い悲しみが込められています。しかし、その悲しみや苦しみ以上に、敬愛する兄を失うことへの絶望感が、「命 何か(に)せむ」という、生きる意味の完全な喪失を示す言葉に凝縮されています。
さらに、「残りて甲斐の有る世なりとも」という一節は、万が一生き残ったとしても、その先にどんな幸福や可能性がある世の中が待っていたとしても、兄・長治が存在しないのであれば、それは自分にとって何の価値もない、生きるに値しない空虚な世界なのだ、という徹底した決意を物語っています。若さゆえの純粋で一途な心、そして飢餓地獄という極限状況の中でより一層強固になったであろう兄弟の絆が、現世への一切の未練を断ち切らせ、兄への殉死という、迷いのない選択へと治定を導いたのでしょう。
長兄・長治が「今はただ 恨みもあらじ 諸人の いのちに代はる 我が身と思へば」と、自己犠牲による諦観の境地を詠み、次兄・友之が「命をも おしまざりけり 梓弓 すゑの世までも 名の残れとて」と、後世への名誉を願ったのに対し、末弟・治定の句は、極めて個人的で、兄へのひたむきな愛情と忠誠心、そして兄と共にありたいという純粋な願いに貫かれています。そのあまりにも純粋で一途な心が、かえって深い悲しみと感動を誘います。
人間関係の深い繋がりや、人が生きる意味について
兄への強い思慕の念を胸に、若くして殉死を選んだ別所治定の辞世の句は、人間関係の深い繋がりや、人が生きる意味について、現代を生きる私たちにも多くのことを考えさせます。
- 家族愛・兄弟愛の計り知れない深さ: 家族、特に兄弟という存在が、時に人生においてどれほど大きな意味を持ち、心の支えとなり、時には生きる意味そのものになるか。治定の句は、その絆の計り知れない深さと、それが人の生き死にさえ影響を与えるほどの強い力を持つことを示しています。
- 純粋な忠誠心や思慕の念の尊さ: 誰かを心から敬愛し、尊敬し、その人のために何かをしたい、あるいはその人と同じ道を歩みたいと願う純粋な気持ち。損得勘定や利害関係を超えたそうした思いは、人間関係を豊かにし、人生に深い彩りを与える根源的な力を持っています。
- 「生きる意味」と「心の拠り所」: 私たちは何のために生きるのか、何があれば「甲斐のある世」と感じられるのか。治定にとってそれは敬愛する兄の存在でした。現代社会においても、人が生きていく上で、心の支えとなり、人生に意味を与えてくれる存在や価値観(家族、友人、仕事、趣味、信念など)を見つけることの重要性を考えさせられます。
- 若者の持つ一途さ、純粋さの力: 治定の句には、若者特有の、理屈や計算を超えた一途さ、純粋さが強く表れています。それは時に危うさを伴う選択につながるかもしれませんが、同時に強いエネルギーや、人を深く感動させる清冽な輝きも秘めています。
- 殉死という選択の背景にあるもの: 現代の価値観からは理解し難い「殉死」という行為ですが、当時の武士社会における主従関係のあり方や、極限状況下での特殊な心理状態、そして個人的な深い愛情や絆といった背景を多角的に理解しようと努めることは、歴史や人間に対する深い洞察を得る上で意味があります。
「三木の干殺し」という地獄を経験し、敬愛する兄たちと共に、わずか18歳前後でその短い生涯を閉じた別所治定。その辞世の句は、戦国の世の非情さの中で貫かれた、若武者の兄へのひたむきで純粋な思慕の念を、私たちに切なく伝えています。「君なくば 憂き身の命 何か(に)せむ」――その言葉は、人が人を思う気持ちの究極の深さと、時にそれが生死をも超えるほどの強い力を持つことを、静かに、しかし強烈に教えてくれるようです。
この記事を読んでいただきありがとうございました。
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