「鬼玄蕃(おにげんば)」の異名で敵から恐れられた、戦国時代の猛将、佐久間盛政(さくま もりまさ)。織田信長亡き後の覇権を争った賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いでは、柴田勝家の先鋒として獅子奮迅の活躍を見せますが、その勇猛さがあだとなり、最後は捕らえられ、若くして処刑されるという悲劇的な運命を辿りました。
戦場を疾駆した「鬼」のような武将。しかし、その佐久間盛政が最期に遺したとされる辞世の句は、意外なほどに静かで、仏教的な深い諦観に満ちています。人生を「小車(おぐるま)」に、現世を「火宅(かたく)」に例え、死をその苦悩からの解放と捉えた盛政の心境とは、どのようなものだったのでしょうか。
世の中を めぐりもはてぬ 小車は 火宅(かたく)のかどを いづるなりけり
鬼玄蕃と呼ばれた男:佐久間盛政の生涯
佐久間盛政は、織田家の宿老であった佐久間信盛(のぶもり)の甥(または従甥)にあたります。叔父・信盛が過去の失態などを理由に信長から突然追放されるという厳しい処分を受けた後も、盛政は織田家に残り、信長の重臣であり北陸方面軍の司令官であった柴田勝家の与力(配下の武将)として仕えました。その武勇は早くから知られており、加賀国(石川県)の一向一揆との戦いなどで目覚ましい功績を上げ、「鬼玄蕃」(玄蕃允という官途名に由来)という勇ましい異名で呼ばれるようになります。
盛政は、柴田勝家からの信頼も厚く、その右腕として北陸戦線で活躍を続けました。天正10年(1582年)の本能寺の変により信長が亡くなると、織田家の後継者を巡って家臣団は分裂。盛政は、恩義ある柴田勝家に従い、羽柴(豊臣)秀吉と対立する道を選びます。
そして天正11年(1583年)、両者の雌雄を決する賤ヶ岳の戦いが勃発します。佐久間盛政は柴田軍の先鋒として最前線に立ち、油断していた秀吉方の重要な拠点である大岩山砦、さらに岩崎山砦を電光石火の勢いで攻略。一時、柴田軍有利の状況を作り出す大殊勲を立てました。
しかし、この勝利に沸き立つ中で、盛政は主君・勝家からの「砦を守り、追撃はするな」という待機命令を無視し、さらに深追いをしてしまいます。この単独での突出が、秀吉本体による迅速な反撃(美濃大返し)を誘発し、柴田軍全体の連携を乱す結果となりました。結果的に、この盛政の行動が柴田軍敗北の大きな要因の一つとなったとされています。その勇猛さが、戦略的な判断を誤らせたのかもしれません。
賤ヶ岳で敗れた佐久間盛政は、戦場を離脱し潜伏しますが、やがて捕縛され、京へと護送されます。秀吉は、盛政の武勇を高く評価しており、自らの家臣になるよう説得を試みたとも伝えられています。しかし、盛政は「(信長公から受けた御恩、そして勝家への忠義がある以上)生きて秀吉に仕えることはできない」として、これをきっぱりと拒否。同年5月、京都の六条河原において、堂々とした態度で斬首されました。享年30という若さでした。
辞世の句に込められた心境:輪廻と解脱
賤ヶ岳での敗北により、若くして処刑されることになった佐久間盛政。その最期に詠んだとされるのが、「世の中を めぐりもはてぬ 小車は 火宅のかどを いづるなりけり」という句です。
「この世の中という、迷いと苦しみに満ちた世界をいつまでも巡り続け、決して終わることのない、この小さな車(=私自身の人生、あるいは人の一生という存在)は、今まさに、燃え盛る家のような苦悩と煩悩に満ちた現世(火宅)の門から、出ていくのだなあ」。
この句には、仏教、特に法華経で説かれる思想が色濃く反映されています。「火宅」とは、法華経に出てくる有名な比喩で、欲望や怒り、迷いといった煩悩の炎が燃え盛る、苦しみに満ちたこの世(娑婆世界)を指します。「小車」も、法華経の「三車火宅の譬え」における羊車(ようしゃ:声聞(弟子)のための小さな乗り物)を連想させますが、ここでは「めぐりもはてぬ」という言葉と合わせて、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)を永遠に生まれ変わり続ける「輪廻転生」の苦しみの中にある自己自身、あるいは人の儚い一生そのものを象徴していると解釈するのが自然でしょう。
佐久間盛政は、自らの波乱に満ちた人生、そして戦いに明け暮れた日々を、苦悩の世界(火宅)を巡る「小車」に例え、迎える死を、その尽きることのない苦しみから解放され、「火宅の門」を出ていくことだと捉えています。そこには、賤ヶ岳での戦略的な失敗への後悔や、自らを処刑する秀吉への恨みといった激しい感情よりも、むしろ輪廻の苦しみから解き放たれることへの安堵感、あるいはこの世の無常を受け入れる静かな諦観が感じられます。
「鬼玄蕃」と呼ばれた猛々しい武将のイメージとは異なり、死を前にして深い仏教的思索に至り、心の平安を得ようとした盛政の内面性がうかがえます。戦国の世の激しい生存競争の中で生きてきた盛政にとって、死は敗北であると同時に、苦界からの「解脱」という、ある種の救済の意味合いを持っていたのかもしれません。
佐久間盛政の生涯と辞世の句は、人生における苦悩や死との向き合い方について、現代を生きる私たちにも深く考えさせます。
- 苦悩(火宅)との向き合い方: 人生には、病気、失業、人間関係のトラブル、あるいは自身の内面的な葛藤など、様々な苦しみがつきものです。盛政が自らの人生を「火宅」に例えたように、まずその苦しみの現実を認識することが第一歩です。そして、その苦しみがいずれ終わるものである(門を出られる時が来る)と捉える仏教的な視点は、過度な絶望や悲観から距離を置き、希望を見出す助けとなるかもしれません。
- 人生の輪廻と無常観: 仏教の輪廻思想は、現代人には直接的ではないかもしれませんが、「人生は思い通りにならないことの繰り返しであり、良い時も悪い時も永遠には続かない」という無常観として捉え直すことができます。この視点を持つことで、成功に驕らず、失敗に過度に落ち込まず、日々の出来事に一喜一憂しすぎない、より落ち着いた心のあり方を保つことができます。
- 死生観の多様性: 死を単なる終わりや喪失、敗北として捉えるだけでなく、苦しみからの解放(解脱)や、新たなステージへの移行(門を出る)と捉える見方。盛政の辞世の句は、死に対する多様な解釈の可能性を示し、それによって心の平安を得る道もあることを教えてくれます。
- 内面世界の豊かさ: 「鬼玄蕃」という勇猛果敢な外面とは別に、盛政が仏教的な深い思索に至ったように、人の内面は計り知れず、多層的です。行動的な人物の中にも静かな思索があり、特に逆境や人生の節目において、精神性が深まることがあります。人の価値を外面だけで判断しないことの大切さを示唆しています。
- 潔く受け入れる強さ: 自分の運命や、変えることのできない現実を、不平不満を言うのではなく、潔く受け入れるという態度。盛政が処刑を前にしても堂々としていたという逸話と共に、その最期の句は、状況を受け入れた上での精神的な強さや尊厳について考えさせます。
戦場を駆け抜けた「鬼玄蕃」佐久間盛政。その若すぎる最期に遺された辞世の句は、武将の勇猛さとは対照的な、静かで深い仏教的な世界観を示しています。人生の苦悩(火宅)を達観し、死を輪廻からの解脱と捉えた盛政の心境は、私たちに、生きること、そして死ぬことの意味を、時代を超えて改めて問いかけてくるようです。
この記事を読んでいただきありがとうございました。
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