ジュール・ブリュネ

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幕末の人物

幕府の軍制改革を助けるためにフランスから送られてきた軍事顧問です。フランス政府の命令に背いてまで旧幕府軍と行動を共にし、五稜郭まで参戦しました。

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来日

1866年、幕府軍は第二次長州征伐で手痛い敗北を喫しました。将軍となった徳川慶喜は、旧態依然とした軍制では今後の戦いには耐えられないと判断し、大規模な軍制改革を実施します。その一つが、フランスからの支援を受け入れ、最新式の装備と訓練を施した部隊の創設です。
この新しい部隊は伝習隊と呼ばれ、隊長は大嶋圭介。顧問はフランスから送られてきた十五名に及ぶ歴戦の士官。ブリュネもその一人でした。
伝習隊の兵員は武士ではなく、博徒、やくざなどの無頼漢が集められ、これら兵士の素養を持たない者たちを、一から鍛え上げることとなりました。

慶喜の降伏まで

ブリュネの階級は大尉であったため、階級的にはおよそ中隊長クラスの指揮官だったことになります。しかし、フランスから送られてきている軍事アドバイザーでもありましたので、慶喜との謁見も可能だったようです。
ブリュネはいつもスケッチをしており、慶喜との謁見の際にはその姿を描くことも許されています。また、ブリュネの子孫にはタイクンの刀と呼ばれる日本刀が伝わっており、これはどうやら慶喜から贈られた短刀のようです。
鳥羽伏見の戦いに敗れた幕府軍、伝習隊は江戸に戻りました。ブリュネら軍事顧問団は江戸城に籠もって戦う作戦を慶喜に献策しましたが、慶喜は開城を決意。こうして幕府軍は解体され、幕府軍を指導する任務を与えられていた顧問団も、帰国することとなったのです。

箱館戦争

ところが、ここからブリュネ達の伝説が始まります。
イタリア公使館で仮装舞踏会がありました。そこに侍の仮装をして参加したブリュネは、置き手紙を残して脱走します。祖国の命令に背き、軍人の立場を捨てて教え子達と運命を共にすることを選んだのです。
品川で停泊中の幕府艦隊の下へ駆けつけ、榎本武揚と共に北海道を目指しました。このとき、共に脱走した人物にカズヌーヴがいましたが、後にさらに三人の士官が参加しました。
武揚を首班とした蝦夷共和国は連隊を単位とした編成を取りました。フランス語で連隊を「régiment」というため、共和国では連隊のことを列士満とよびました。各列士満は二つの大隊から構成され、大隊長は皆日本人でしたが、列士満の指揮官は脱走して参加したフランス軍士官達が務めたのです。
旧幕府軍は当初強力な海軍を保有しており、戦力的には新政府軍も易々とは手の出せないものでした。しかし悪天候のために軍艦を失った共和国は制海権を喪失。戦力を自由に動員出来る新政府軍には太刀打ち出来ず、五稜郭の陥落は目前に迫りました。
武揚は外交的配慮から、フランス軍士官達に脱出を促しました。彼らは戦場を離れフランス船に収容され、母国へと送還されることになりました。

裁判と名誉回復

ブリュネ達は裁判にかけられることになりました。軍人として、命令に背いたことは裁かれるに十分な理由でした。
ところが、結局彼らはなにも罰せられることがありませんでした。ブリュネが残した置き手紙が新聞で公開されたことで、人々にはむしろ英雄として歓迎されたのです。
予備役扱いではありましたが、元々の部隊にも復帰しました。程なくして発生したフランスとプロイセンの戦争を経て、後には少将となっています。最終的には参謀総長まで昇進しました。
ブリュネが参謀総長になった時、陸軍大臣はシャノワーヌでした。シャノワーヌはブリュネと共に軍制改革を指導しに来た軍事顧問団の一人で、ブリュネの上司、顧問団の隊長でした。
後の陸軍大臣や参謀総長を送り込んできたフランスが、どれだけ本気だったかが分かります。
1838年生まれのブリュネは、1911年に亡くなりました。第一次世界大戦が、もうすぐ始まる頃です。

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