土方歳三の名言です。

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幕末の人物

男の一生は、美しさをつくるためのものだ。俺はそう信じている
一日過ぎると、その一日を忘れるようにしている。過去はもう私にとって何の意味もない
喧嘩ってのは、おっぱじめるとき、すでに我が命ァない、と思うことだ。死んだと思いこむことだ。そうすれば勝つ
将来われ武人となりて、名を天下に揚げん
我が兵は限り有るも、官軍は限りなし。一旦の勝ち有りと雖(いえど)も、その終には必ず敗れんこと、鄙夫(ひふ)すらこれを知れり。然るに吾れ任ぜられて、若し敗れるようなことあれば則ち 武夫の恥なり。身を以てこれに殉ずるのみ
昨日の夕陽が、きょうも見られるというぐあいに人の世はできないものらしい
世に生き飽きた者だけ、ついて来い。

土方歳三の辞世の句です。
たとえ身は蝦夷の島辺に朽ちるとも 魂は東(あずま)の 君をまもらむ
新撰組の「鬼の副長」の異名で知られる土方歳三。局長の近藤勇が死んでもなお激戦を潜り抜け、蝦夷の地まで辿り着いて新政府軍に最後まで抵抗したという、まさに新撰組の主役です。
実際に司馬遼太郎先生の書いた「燃えよ剣」は土方を主役にした作品です。
近藤の右腕として働いていた新撰組時代は、局中法度を徹底的に守り抜き粛清の嵐を巻き起こす冷酷な男のイメージが強いですが、近藤が死んでからはいつも温和で冷静だったといわれています。
様式の軍服を身にまとった写真が有名ですが、身長も高く、色白だったようです。当時も土方に憧れる女性は多かったようです。

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近藤との出会い

近藤勇と同じ武蔵国多摩郡ですが村は石田村です。やはり近藤同様に百姓の家に生まれ、子ども心に武士への憧れは強かったといわれています。
父親は生まれる前に死に、母親も6歳のときに結核で亡くなっています。10人兄弟の末っ子で兄弟に養ってもらっていたようです。
奉公にも行ったようですが、正確な歳や店はわからないようです。奉公中に職場が同じ年上の女性を妊娠させてしまい追い出されたという噂もあります。
どうも奉公は土方には合わなかったようで、実家秘伝の「石田散薬」を行商しつつ、各地の剣術道場で他流試合を重ねて修行をしたようです。そのために自己流の悪い癖がついてしまい、天然理心流に入門しても目録までしか貰っていません。ただし実戦は何でもありの戦い方で相当に強かったといわれています。
姉である、のぶの夫が近藤勇の義兄弟であり、そのつながりで1859年24歳で天然理心流剣術に入門します。ここで近藤勇と運命の出会いをするわけです。
1861年の近藤の宗家四代目襲名披露の野試合では紅組の大将を守る役を務めています。

新撰組発足

1863年に浪士組として上京。八月十八日の政変の活躍で「新撰組」の隊名を下賜されます。新見錦を切腹、芹沢鴨を暗殺、土方は副長となります。
新撰組の組織作りや実際の指揮命令は土方が出していたようです。
1864年に池田屋事件が起こり、別隊を率いていた土方は後から池田屋に到着し、すぐに周囲を固めて会津藩や桑名藩を中に入れず、新撰組の手柄を守りました。
これ以降新撰組の名は全国に轟き、それと共に隊士の数も増えます。組織を緩ませないように土方は局中法度を徹底的に守らせ、違反したものは切腹させていきます。規律を厳しくしたことでより新撰組は強く精鋭揃いになっていきます。

近藤の死

1867年6月に幕臣となりますが、10月には大政奉還、12月には王政復古の大号令、ということで江戸幕府は衰退していきます。
1868年に戊辰戦争が始まり土方はそこで敗北。洋式軍備の必要性を強く感じたといいいます。
大阪から江戸へ、そこから甲斐を目指します。ここから名前を内藤隼人と名乗っています。
3月には甲斐の勝沼の戦いで敗北。4月には近藤が捕縛され斬首されました。
新撰組を山口二郎(斎藤一)に任せて会津に進ませ、少数で江戸へ向かい旧幕府軍と合流しますが、江戸城の無血開城のため脱出します。

旧幕府軍としての活躍

秋月登之助率いる先鋒軍の参謀を務め、宇都宮城を落城させますが、すぐに取り返されます。ここで土方は足を負傷し会津で三ヶ月養生することになるのです。
その後、会津に残る山口派と仙台へ向かう土方派に新撰組は分裂します。
仙台で榎本武揚率いる海軍と合流。大江丸に乗って蝦夷地へ向かいます。
この時には服装は洋式の軍服。舶来の懐中時計も持っていたといいますから、新しい時代への適応力も高いものがありました。腰には愛刀の和泉守兼定を差しています。
10月には土方は間道軍総督として五稜郭に入りました。
額兵隊を率い松前城を落とし、江差まで追撃したとき、海上から援護するはずだった開陽丸が座礁、沈没し榎本と共に悔しがったといわれています。
12月には各国領事を招いての蝦夷地平定祝賀会を開き、選挙によって榎本が総裁となり蝦夷共和国が成立したのです。土方は函館市中取締、陸海軍裁判局頭取の役を任されています。
1869年3月、新政府軍の甲鉄艦奪取を試みますが失敗。
4月にはいよいよ新政府軍も上陸を開始。土方は二股口を徹底防戦で守り抜きます。しかし松前口が破られ撤退を余儀なくされました。
5月11日函館総攻撃の前に兵を督戦して戦い、一本木門にて腹部に銃弾を浴びて即死。34歳の若さで他界しています。
榎本はこの6日後に降伏をしました。旧幕府軍は完全に壊滅します。
鬼の副長と恐れられた土方でしたが、函館では温和で母のように皆から慕われていたそうです。組織をいかに効率よく強くするのかにこだわり、土方歳三はその役割を的確に演じていたのかもしれません。

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