久坂玄瑞の名言集です。

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幕末の人物

幕末の動乱の中、尊王攘夷派志士の中心人物として、短い人生を駆け抜けた久坂玄瑞です。藩医久坂家に生まれ家業である医学を勉強するため、藩校医学所好生館に入学します。母、兄、父が次々となくなり十五歳にして家督を継ぐことになりました。十七歳のときに藩に願い出て、九州に三カ月間遊学。松陰の親友であった宮部鼎蔵を訪ねます。宮部鼎蔵から海外渡航を企てた罪で江戸より送還され、萩で私塾を開いていた吉田松陰の松下村塾を奨められました。
帰藩後、玄瑞は松陰と書簡のやりとりを行い、その一年後、十八歳となった玄瑞は松下村塾へ入塾して、医者を目指していましたが「今自分の胸にあるのは、病人を治す処方ではない。天下を治療する処方である」と新しい志をもつようになりました。
松陰の松下村塾で最大のライバルは幼なじみの高杉晋作です。松陰は玄瑞と晋作を競わせて才能を開花させるようにしていました。松陰は玄瑞を「防長第一流の人物」であると高く評価して、自分の一番下の妹との結婚を玄瑞に勧めます。時に玄瑞十八歳、文十五歳でした。
高杉晋作と一緒にイギリスの公使館の焼き討ち、下関戦争、英国公使館焼き討ちにも参加しています。
安政の大獄により松陰が処刑された後、玄瑞は松陰の遺志を継ぐかのように長州藩尊攘運動の先頭に立って活動するようになりました。長州藩の若手藩士を率いて、 尊王攘夷運動にのめり込んでいきます。
新選組に長州藩士を含む尊王攘夷志士たちが斬殺、捕縛された池田屋事件がおきます。京都での主導権争いとなり 「蛤御門の変」を迎えます。蛤御門を攻める長州勢は会津藩が守る御所に迫る勢いでしたが、薩摩藩の援軍が到着すると崩れ去ります。玄瑞は入江九一、寺島忠三郎らと鷹司邸に籠りました。屋敷はすぐに取り囲まれ、火がかけられると、脚を負傷した玄瑞は鷹司邸で自害します。二十五歳の生涯でした。
松陰から受け継いだ玄瑞の思想と行動力は、坂本龍馬や中岡慎太郎をはじめ、多数の志士たちに大きな影響を与えています。西郷隆盛は明治維新の後に、玄瑞について以下のようなことを述べています。
「今、俺が少しばかりの手柄があったからといって皆にチヤホヤされるのは、額に汗が出るような気がする。もし藤田東湖先生や、久坂玄瑞、その他の諸先輩が生きておられたなら、とうてい、その末席にも出られたものではない。それを、ああいう先輩方が早く死なれたために、俺のような者が偉そうに言われるのは、恥ずかしゅうてならぬ」(頭山満「大西郷遺訓」)。
久坂玄瑞の名言です。
世のよし悪しはともかくも、誠の道を踏むがよい、踏むがよい
大名や公家はあてにならない。本当に力を発揮するのは草莽の志士の連中だけだ
私の志は、夜明けに輝く月のほかに知る人はいない
花をみてさきにほふ花をみてだにしのぶかな雲ゐの風の今日はいかにと
けふもまたしられぬ露のいのちもて千とせも照らす月をみるかな
取り佩ける太刀の光はもののふの常に見れどもいやめづらしも
いくそたびくりかへしつつわが君のみことし讀めば涙しこぼるも
あなたなる峯の白雲夕ぐれに見ればかなしも世の事思ふに
時なればせんすべもなしもののふのあはれ吾が君もおもちちもおきて
あづさ弓春も来にけりもののふの引き返さじと出づる旅路に
富士の御山は崩るとも、心岩金砕けやせぬ、これ、砕けやせぬ。
時鳥血爾奈く声盤有明能月与り他爾知る人ぞ那起
ほととぎす血に泣く聲は有明の月より他に知る人もなき

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