伊藤博文の名言集です。

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幕末の人物

初代内閣総理大臣として日本史では有名人の伊藤博文です。博文が幕末にどのような活躍をしていたかを知っている人はあまり多くいません。幕末の博文を見ていると、明治政府の基盤を作ったことがよくわかります。
伊藤博文は長州藩周防に生まれます。貧しい家に生まれたため、十二歳のころには奉公に出されていました。青年期には父とともに足軽となります。
しかし、博文に転機が訪れます。江戸湾の警備のため相模に派遣されていた際に、上司として来原良蔵と出会います。来原は吉田松陰の友人でもあり、桂小五郎の義理の弟(妻が桂の妹)です。その来原から吉田松陰の松下村塾を紹介されて入門することになりました。
松下村塾で博文は頭角を現していきます。松陰は博文を「周旋の能力がある」と評価して伊藤の才能を見抜いていました。周旋とは、人と人との調和を図ることであり、政治的根回しなどを行うことです。博文は実務家の能力に長けていました。
長州藩の京都派遣に博文を推薦して同行させます。規範後は桂小五郎の従者となって長州藩の江戸屋敷に移り住みました。安政の大獄で松陰が処刑されると、遺骸を引き取って松陰の意思を継ぐべく海外留学を志願します。
イギリス留学
井上馨の勧めで海外渡航を決意します。長州呉傑の一員として井上馨、遠藤謹助、山尾庸三、野村弥吉らとイギリスへ渡ります。ロンドンへ到着後、英語や礼儀作法を習い、美術館や海軍施設などを見学。西洋の文化に触れ、同時に圧倒的な国力差に愕然とします。
下関戦争の際の講和議会では、留学で身に着けた英語を活かして高杉晋作の通訳として参加します。この際に、高杉は四か国連合から突き付けられた条件をほとんど受け入れますが、唯一「彦島の期限付き租借」という条件だけは受け入れませんでした。博文はこのことについて、あの条件を受け入れていたら今の日本はなかった、と後に回想しています。
高杉晋作が挙兵する際には一番に駆け付ける
イギリスから帰国後は尊王攘夷派の活動にはあまり参加していませんでしたが、長州統制の際に、高杉晋作が挙兵する際には一番に駆け付けたともいわれています。
高杉のことを慕っていたことがわかります。それ以降も、薩摩藩や外国人商人との武器購入の交渉にあたるなどして活躍していました。
イギリスへ渡る前の博文は公武合体を主張する藩士を暗殺して、高杉らとともに品川御殿山の英国公使館を焼打ちにするなどの活動をしていました。倒幕運動に関してはあまり目立った働きはしていないものの、その信念のある行動は明治になる前から変わっていないようです。
女性関係のエピソードも多く艶っぽい話がたえなかったといいます。
伊藤博文の名言です。
「大いに屈する人を恐れよ、いかに剛にみゆるとも、言動に余裕と味のない人は大事をなすにたらぬ。」

「今日の学問は全て皆、実学である。昔の学問は十中八九までは虚学である。」

「いやしくも天下に一事一物を成し遂げようとすれば、命懸けのことは始終ある。依頼心を起こしてはならぬ。自力でやれ。」

「お前に何でも俺の志を継げよと無理は言はぬ。持って生まれた天分ならば、たとえお前が乞食になったとて、俺は決して悲しまぬ。金持ちになったとて、喜びもせぬ。」

「たとえここで学問をして業が成っても、自分の生国が亡びては何の為になるか。」

「本当の愛国心とか勇気とかいうものは、肩をそびやかしたり、目を怒らしたりするようなものではない。」

「国の安危存亡に関係する外交を軽々しく論じ去つて、何でも意の如く出来るが如くに思ふのは、多くは実験のない人の空論である。」

「本当の愛国心とか勇気とかいうものは、肩をそびやかしたり、目を怒らしたりするようなものではない。」

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