高杉晋作の名言集です。

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幕末の人物

江戸時代末期の長州藩士。長州藩の尊王攘夷の志士として活躍します。吉田松蔭が開塾した松下村塾四天王の一人。
長州藩の藩論を倒幕に転換させた功労者で、自由奔放に物事を考え、行動することができる人物でした。
晋作は藩命によって役職を与えられると素直にそれに応じましたが地位に対して無欲でした。酒も女も大好きで、藩から得た洋行費で好き勝手に遊興し、軍艦を買い付けたこともあります。
師の吉田松陰も「学問は未熟でわがままなところもあるが、有識の士である。十年後にはすぐれた仕事をなすだろう」と評しています。
晋作の学問は急速に成長して、皆が晋作に一目おくようになります。なにかを決定するときは、晋作の意見に従う、と松陰にいわしめるようになりました。
倒幕の意志を固めた晋作でしたが、後には脱藩・出家など周りが眉をひそめる奇行を繰り返します。
生い立ち
晋作は1839年、長州の萩城の近くで生まれます。幼少のころより剣術を学び、のちに柳生新陰流の免許皆伝となるほどの腕前でした。学問のほうでも松下村塾で学び、優秀な成績を修めます。58年、江戸へ遊学すると正平坂学問所で学ぶなど、積極的に学問に取り組みます。1861年には海軍修練のため、またも江戸へ。8月には東北へ赴き佐久間象山や横井小楠と交流します。
その間、長州藩では尊王攘夷派が台頭し、新作や桂小五郎もその活動に加わります。生麦事件をきっかけに外国講師を暗殺する計画を立てたり、品川御殿に建設中の英国公使館を焼打ちしたりしました。
四国連合との講和会議
晋作の大きな功績は1864年のことです。前年から尊王攘夷派の活動が活発になってきました。長州ではアメリカ船やフランス戦などの外国船に砲撃をします。長州藩はイギリス、フランス、アメリカ、オランダの連合艦隊を敵に回して、完全に孤立してしまいます。長州藩は尊王攘夷派の中心的存在であったのですが、下関を封鎖されると、長崎での貿易に支障が出ると判断した諸外国が四か国で下関を包囲し圧力をかけます。四国連合は二十日以内に海峡封鎖が解かれなければ武力を行使する旨を伝えますが、それを拒否して攻撃をうけてしまいます。
戦いに敗れた長州藩は、講和大使として晋作を指名しました。通訳の伊藤博文を携え和議交渉を任されます。晋作は相手の提示した条件はほとんど受け入れますが、ただ一点だけは拒否します。その条件とは「彦島の租借」でした。アヘン戦争で配線した清の情勢を知っていた高杉は、領土の租借=植民地化ということをわかっていました。通訳を務めた伊藤博文の回想によると、これを受け入れていると日本の歴史は大きく変わっていただろうとのことです。
さらに晋作は長州藩の行動は幕命に従ったのみと主張して、イギリス、フランス、アメリカ、オランダに対する損害賠償責任はすべて徳川幕府が負うことにしました。
奇兵隊の結成
これに関するもう一つの功績は、外国船に攻撃をされた際に騎兵隊を結成したということです。当時、幕府は尊王攘夷派を排除する動きを見せていました。それは長州藩へも向けられ、二回にわたる長州征討を行いました。
一回目は長州側が大敗してしまいますが、二回目は薩摩藩の命令拒否の動きもあり、幕府側に大きなダメージを与えました。この際に活躍したのが騎兵隊です。この勢いで薩長同盟を結び、倒幕へと向かうのです。しかし、1867年、高杉は大政奉還が成立する前に死去してしまいます。
その後、京都で勢力の挽回を図る長州藩と、御所を守る幕府軍の間で激しい戦いが繰り広げられます。兵力では圧倒的に劣っていた長州軍は、薩摩藩、会津藩を主力とする大軍の幕府軍には力及ばず、長州藩は敗走しました。(禁門の変)
この禁門の変により孝明天皇は長州軍討伐の勅命を下します。これを受け幕府は、西国諸藩に出兵命令を出しましたが、 幕府の動員令を受けた諸藩の戦意は低く、幕府軍を率いる総督もなかなか決まらなかったため、幕府軍の参謀となった薩摩藩の西郷隆盛が自ら長州藩と交渉し、禁門の変の責任者を切腹させるなどの条件をつけて、長州藩の降伏を認めると幕府軍は撤収しました。こうして、第一次長州征討は戦火を交えることなく、外交交渉で終結しています。
一時的に長州藩の尊攘派勢力は衰退しましたが、間もなく藩を動かすことになります。決起したのは晋作です。
藩内クーデターを起こすために、ひとり挙兵
晋作は自身が創設した奇兵隊に決起を促しましたが断られます。功山寺挙兵で晋作とともに立ち上がったのは伊藤博文が率いる力士隊など八十四名でした。対する長州藩本体の兵力は二千です。無謀ともいわれたクーデターでしたが、戦いを重ねるうちにかつての仲間である井上馨・品川弥二郎・山田顕義・山県有朋、付近の領民による義勇兵も加わりクーデターが成功します。これにより晋作は藩の実権を握ることになり長州藩は倒幕に統一されました。
京都において政治の中核を荷っていた長州藩でしたが、幕府の許可なく拠点を萩から山口に遷していたこともあり、長州藩の不穏な動きに警戒を強めた徳川慶喜や松平容保の主張によって、幕府は二度目の長州征伐を決定します。
薩長同盟
長州に敵対した薩摩藩でしたが、土佐藩の坂本龍馬・中岡慎太郎・土方久元を仲介として、晋作や桂小五郎・井上聞多・伊藤俊輔らの勧めにより水面下で長州と軍事的同盟を結んでいました。
そのため長州征伐に関して薩摩は出兵を辞退します。晋作は第二次長州征伐で海軍総督として指揮をとり、幕府艦隊を夜襲して打ち破りました。戦いの途中でしたが、肺結核のため療養生活を余儀なくされ、大政奉還を見ずして二十九歳でこの世を去りました。松陰の教えを実行して時代を駆け抜けた、太く短い一生でした。
初代総理大臣の伊藤博文は兄貴分である晋作を評してこんな言葉を残しています。
動けば雷電の如く発すれば風雨の如し、
動けば雷電のようで、言葉を発すればまるで風雨のようである。
衆目駭然、敢て正視する者なし。
多くの人はただただ驚き、あえて正視する者すらいない。
これ我が東行高杉君に非ずや
これこそわれらの高杉晋作さんなのである。
高杉晋作の名言です。
おもしろき こともなき世を おもしろく。
人間、窮地におちいるのはよい。意外な方角に活路が見出せるからだ。
しかし、死地におちいれば、それでおしまいだ。だから、おれは困ったの一言は吐かない。
天賦のかんによって、その場その場で絵をかいてゆけばよい。
人間は、艱難は共にできる。しかし富貴は共にできない。
戦いは一日早ければ一日の利益がある。まず飛びだすことだ。思案はそれからでいい。
苦しいという言葉だけは、どんなことがあっても、言わないでよそうじゃないか。
負けて退く人をよわしと思うなよ。知恵の力の強きゆえなり。
人は旧を忘れざるが義の初め。
心すでに感ずれば、すなわち、口に発して声となる。
三千世界の烏を殺し、主と朝寝がしてみたい。
負けて退く人をよわしと思うなよ。知恵の力の強きゆえなり。
友の信を見るには、死、急、難の三事をもって知れ候。
これよりは長州男児の腕前お目に懸け申すべく
人は人 吾は吾なり 山の奥に棲みてこそ知れ 世の浮沈
死後に墓前にて芸妓御集め三弦など御鳴らし御祭りくだされ。
いまの場合、一里行けば一里の忠を尽くし、二里行けば二里の義をあらわす。
尊王の臣子たるもの一日として安閑としている場合ではない。
苦労する身は厭わねど、苦労し甲斐のあるように。
翼あらば千里の外も飛めぐりよろづの国を見んとぞおもふ。
まさにこれ邦家存亡の秋。まさに回天回運の策を立てんとす。
死んだなら釈迦や孔子に追いつきて道の奥義を尋ねんとこそ思へ。
後れても後れてもまた後れても誓ひしことを豈忘れめや

詩を愛し、酒を愛し、三味線を愛し、そして女性を愛した高杉晋作の漢詩です。
妻児将到我閑居(妻児まさにわが閑居に到らんとす)
妾婦胸間患余有(妾婦胸間患い余りあり)
従是両花争開落(これより両花開落を争う)
主人拱手莫如何(主人手をこまねいて如何ともするなし)
数日来鶯鳴檐前不去 数日来鶯檐前に鳴いて去らず
賦之与       これを賦して与える
一朝檐角破残夢 一朝檐角(たんかく)残夢を破る
二朝窓前亦弄吟 二朝窓前(そうぜん)に亦弄吟(ろうぎん)す
三朝四朝又朝々 三朝四朝又朝々
日々懇来慰病痛 日々懇来し病通を慰む
君於方非有旧親 君は方(まさ)に於いて旧親あるに非ず
又非寸恩在我身 又寸恩我が身に存すに非ず
君何於我誤看識 君何ぞ我に於いて看識を誤る
吾素人間不容人 吾素より人間に容れられず
故人責吾以詭智 故人吾を責むるに詭智(きち)を以てす
同族目我以放恣 同族我を目するに放恣(ほうし)を以てす
同族故人尚不入 同族故人尚入れず
而君我容遂何意 而して君吾を容るる遂に何の意ぞ
君勿去老梅之枝 君去る勿(なか)れ老梅の枝
君可憩荒溪之湄 君憩うべし荒溪の湄(みぎわ)
寒香淡月我欲所 寒香淡月は我が欲する所
為君執鞭了生涯 君が為に鞭を執って生涯を了らん

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