藤田東湖の名言集です。

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幕末の人物

徳川斉昭に仕えた水戸藩士であり、その活躍と思想を補佐した人物です。黒船来航から間もない時期に亡くなってしまったために、大きな活躍の場は与えられませんでした。

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出自

1806年、水戸学の学者であった藤田幽谷の次男として誕生しました。兄が早世したため、実質的には唯一の男子として育てられたようです。
父は商家の生まれでありながら学問を修め、高い能力を示したことで水戸藩から禄を与えられました。水戸学に大きな影響を与え、東湖を始め、水戸藩士で徳川斉昭の師にもなった会沢正志斎などを弟子に持っています。
東湖が二十歳の頃に父が亡くなり、藤田家の家督を継ぎました。東湖はすぐに学者としての重役を果たし、父に負けない才能を見せることになります。
なお、東湖は号で、死の数年前になって名乗ったものです。名は彪といいました。

藩主の側近として

当時の水戸藩主は徳川斉脩でした。斉脩には弟が三人いましたが、そのうち二人はすでに他家に養子に出されていました。残されていたのは三男の斉昭一人でした。
水戸藩は家老の力が強く、門閥派と呼ばれ、大名に匹敵するほどの力を持っていたのですが、この門閥派は新しい藩主に将軍家からの養子を頂こうと画策しました。斉脩の正室は将軍家の姫だったのですが、この婚姻によって下賜されるようになった年額一万両は財政の厳しい水戸藩にはとてもありがたいものでした。
門閥派はさらに将軍家との関係を強化し、さらなる恩恵にあずかろうと考えていたようです。
一方それに対して、正当な継承権を持つ斉昭を後継者とすべきとする一派がありました。その中心人物となったのが、まだ若い東湖でした。
能力もあり、思想的にも共有し、継承問題でも味方となった東湖は、斉昭にとっては非常に頼もしい家臣であり、側近として常に身近においておかれました。
しかし、突如として失脚してしまいます。
決定を下したのは斉昭ですが、側近であった東湖が意見を出していないはずはなく、おそらく両者ともにそれでよいと判断したのでしょう。水戸学の思想は神仏分離の傾向があり、仏教を軽んじていました。斉昭の軍制改革によって青銅製の大砲を装備することになった時、材料の調達のために仏像などを寺から徴発してしまいました。こういった仏教に対する弾圧などが問題視され、門閥派の反撃もあって斉昭は隠居に追い込まれ、謹慎処分とされてしまったのです。東湖もまた蟄居処分となり、数年間政治の舞台から姿を消します。
このあたりは極端な思想の持ち主であったため、どうしても敵も多かったのでしょう。

思想の中心地として

1852年にようやく処分を解かれた東湖ですが、再びその能力を必要とされる日が来ました。翌年のペリー来航です。斉昭が幕府に呼ばれて外国とどのように接するべきか、海防をどうするかという問題を担当することになった時、東湖は江戸に呼び出されて再び斉昭の側近として働くことになりました。
この時期、東湖は多忙を極めたと思われますが、その忙しさの原因の一端は、面会希望の多さもあったようです。尊皇攘夷の思想家としては第一人者であり、多数の志士が東湖との面会を希望しました。その中には西郷隆盛も含まれており、東湖との出会いに感激した文書が残されています。隆盛は後に「先輩としては藤田東湖。同輩としては橋本左内を最も尊敬している」と述べています。
これほどの人物であった東湖ですから、存命であればその後の歴史にも名を残したことは間違いなさそうですが、残念ながら程なくして亡くなってしまいます。
1855年におきた安政の大地震です。一度は外に出たものの、火鉢を心配した母が戻るというので付き添ったところ、屋敷が崩れてきました。東湖は母をかばい脱出させましたが、自らは下敷きになったといいます。

藤田東湖の名言集です。

「国難襲来す 国家の大事といえども 深慮するに足らず 深慮すべきは  人心の正気の足らざるにあり」

藤田東湖の正気歌

天地正大の氣、粋然として神州に鍾る。
秀でては不二の嶽となり、巍巍として千秋に聳ゆ。
注いでは大瀛の水となり、洋々として八洲を環る。
発いては萬朶の桜となり、衆芳與に儔し難し。
凝つては百錬の鐵となり、鋭利鍪を断つべし。
藎臣皆熊羆、武夫盡く好仇。
神州孰か君臨す、萬古、天皇を仰ぐ。
皇風六合に洽く、明徳太陽に侔し。
世、汚隆無くんばあらず、正氣時に光を放つ。
乃ち参す大連の議、侃侃、瞿曇を排す。
乃ち助く明主の断、焔焔、伽藍を焚く。
中郎嘗て之を用ひ、宗社磐石安し。
清丸嘗て之を用ひ、妖僧肝胆寒し。
忽ち揮ふ龍口の剣、虜使頭足分る。
忽ち起す西海の颶、怒涛妖氛を殱くす。
志賀、月明の夜、陽はに鳳輦の巡を為す。
芳野戦酣なるの日、又代る帝子の屯。
或は投ぜらる鎌倉の窟、憂憤正に愪愪。
或は伴ふ櫻井の駅、遺訓何ぞ慇懃なる。
或は狥ふ天目山、幽囚、君を忘れず。
或は守る伏見の城、一身、萬軍に當る。
承平二百歳、斯の氣、常に伸ぶるを獲たり。
然れども其の欝屈するに當りては四十七人を生ず。
乃ち知る人亡ぶと雖も、英霊未だ嘗て泯びず。
長く天地の間に在り、稟然彜倫を叙づ。
孰か能く之を扶持す、卓立す東海の濱。
忠誠皇室を尊び、孝敬、天神に事ふ。
修文と奮武と、誓つて胡塵を清めんと欲す。
一朝天歩艱み、邦君身先づ淪む。
頑鈍、機を知らず、罪戻孤臣に及ぶ。
孤臣、葛藟に困しむ、君冤誰に向つてか陳べん。
孤子墳墓に遠ざかる、何を以て先親に謝せん。
荏苒二周星、獨り斯の氣の随ふあり。
嗟、豫萬死すと雖も、豈汝と離るるに忍びんや。
屈伸天地に付す、生死又奚ぞ疑はん。
生きては當に君冤を雪ぐべし、復見ん四維の張るを。
死しては忠義の鬼と為り、極天皇基を護らむ。

「現代語訳」(八神邦建訳)
天地に満ちる正大の気は、粋を凝らして神州日本に集まり満ちている。
正気、地に秀でては富士の峰となり、高く大いに幾千年もそびえ立ち、流れては大海原の水となり、あふれて日本の大八洲をめぐる。
開けば、幾万もの枝に咲く桜の花となり、ほかの草木の及ぶところではない。
正気、凝れば、百度(ひゃくたび)鍛えし日本刀となり、切れ味鋭く兜を断つ。
忠臣いずれもみな勇士。武士ことごとく良き仲間。良き競争相手、神州日本に君臨されるはどなたか。太古のときより天皇を仰ぐ。
天子の御稜威(みいつ)は、東西南北天地すべてにあまねく広がり、その明らかなる御徳は太陽に等しい。
世の中に栄枯盛衰の絶えることはない。時に正気が光り輝く。
たとえば、欽明帝の御代のこと。物部尾輿(もののべのおこし)、中臣鎌子、大連(おおむらじ)の議にて、剛直なる正論をもって、蘇我稲目(そがのいなめ)の惑える仏教を排斥した。
すなわち、英明なる帝の叡慮を助け、蘇我の仏像、海に捨て、私寺ことごとく焔をあげて焼きつくした。
たとえば、中臣鎌足、正気をおこなう。「乙巳(いっし)の変」(大化の改新)。
蘇我氏の専横、倒して皇室国家を磐石安泰ならしめた。
たとえば、和気清麻呂、正気をおこなう。宇佐八幡の御神託をいただいて、妖僧「弓削道鏡」、肝を冷やした。
同じく、北条時宗。建治元年(1275年)、降服迫る「元」の使節を虜にし、相模の国は竜の口にて切り捨てて、捕虜の首と胴を泣き別れにした。
同じく、元寇襲来のとき、正気は玄界灘の猛風を起こし、怒涛とともに外国軍の異様な気配を滅ぼしつくした。
後醍醐帝の御代のこと。元弘の変(1331年)。倒幕の企て洩れて、志賀の比叡山に逃れた夜は明るい月夜。
さらに藤原師賢(もろかた)ら、帝の御衣(みけし)を借り、帝の乗り物にて行幸を偽り、延暦寺へ。帝はその間に笠置の山へ移りたもう。
南朝は吉野城の戦いたけなわなるとき、元弘三年(1333年)、護良(もりなが)親王の忠臣、村上彦四郎義光(よしてる)、正気を行う。
帝子(大塔宮・護良親王)の身代わりに、落城さなか宮の鎧兜をいただき切腹す。
あるいは、建武新政、護良親王、正気を行う。
足利尊氏の誅殺くわだて、鎌倉は東光寺の土牢に幽閉さる。
深い憂憤、苦悩のうちに弑殺さる。時に二十八歳。
あるいは、楠木正成、正行(まさつら・11歳)父子の桜井の駅の別れのとき。
正成四十三歳、正気を行う。生き延びて最期の一人になるとも帝を護れ、と遺言するは、なんとねんごろなことか。
勝てぬ戦と知りながら、大楠公、湊川にて討ち死にす。
あるいは、天正十年春三月、織田信長に敗れた武田勝頼、天目山にこもりいる。
讒言にて幽閉されていた小宮山内膳正友信、主君の恩を忘れず、これが最期のお供だと、駆けつけ許され殉死した。
あるいは、天下分け目の関が原、徳川家康が股肱の臣、鳥居彦右衛門元忠、主君の囮を買って出て伏見の城を守り奮戦。
二千の手勢とわが身をもって、四万の敵に当たって討ち死にする。享年三十三歳。
以来、太平の世は二百年。かくのごとく正気は、常に伸びるを得てきた。
しかし、正気は、その鬱屈するときもあったが、赤穂義士の四十七人を生み出す。
すなわち、当時を知る人々が亡くなっても、英霊たちが滅んだことは、いまだかつてない。
正気、とこしえに天地の間にあって、りりしく普遍の道を現し続ける。
かくのごとき正気を、だれが助けて伸ばせるだろうか。人為でできることではない。
抜きん出て立つ東海の日本の浜辺、忠誠つくして皇室を尊び、両親を敬うがごとくに、天津神につかえまつる。
学問を修め、さらに武道をきわめ、誓って異国のけがれを払わんと欲す。
ある日、時運、困難となり、水戸藩主・徳川斉昭の身は隠居謹慎を命ぜられて表より消え、幕府は時機を見るに頑迷にして愚鈍。
藩主の冤罪は、一人残された腹心・東湖に及んで蟄居幽閉の身となった。
東湖、蔦葛(つたかずら)のつるにからまれたごとく苦しみ身動きが取れない。
藩主の冤罪、誰に向かって陳述できようか。
わが身は、江戸の水戸藩下屋敷にあり、先祖の墓のある郷里からも遠ざかっている。
どうやって亡父亡母のご恩に報いることができようか。
いつしか二年の時が過ぎ、幽閉の身に、ただこの正気のみが満ちている。
ああ、わが身は、たとえ死を免れぬとしても、どうして正気よ、おまえと離れることを忍べようか。
わが命の絶えるも伸びるも天地の神におまかせする。生きようと死のうと、疑うことなどできようか。
生きるならば、まさに主君の冤罪を晴らし、主君のふたたび表舞台で国の秩序を伸張する姿を見るにちがいない。
死しては、忠義の鬼と化し、天地のある限り、天皇の御統治をお護り申し上げよう。

回天詩

三決死矣而不死。二十五回渡刀水。
五乞閑地不得閑。三十九年七処徙。
邦家隆替非偶然。人生得失豈徒爾。
自驚塵垢盈皮膚。猶余忠義填骨髄。
嫖姚定遠不可期。丘明馬遷空自企。
苟明大義正人心。皇道奚患不興起。
斯心奮発誓神明。古人云斃而後已。

「現代語訳」
三たび死を決して而して死せず。二十五回刀永を渡る。
五たび閑地を乞うて閑を得ず。三十九年七処に徙る。
邦家の隆替偶然に非ず。人生の得失豈徒爾ならんや。
自ら驚く塵垢の皮膚に盈つるを。猶余す忠義骨髄を填む。
嫖姚遠期す可からず。丘明馬遷空しく自ら企つ。
苟しくも大義を明らかにし人心を正さば。皇道奚ぞ興起せざるを患へん。
斯の心奮発神明に誓ふ。古人云ふ斃れて後已むと。

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