伊庭八郎の名言集です。

スポンサーリンク
幕末の人物

隻腕の剣士と知られ、重傷を負っても片腕になっても闘志を失わなかった武人です。武士の中でも、剣術道場師範の血を引く、剣術の名門の出でした。

スポンサーリンク

活躍を始めるまで

1844年、伊庭秀業の子として誕生しました。秀業は江戸四大道場の一つ、練武館を運営していました。秀業の先代道場主は伊庭秀淵で、秀業はその養子に入って後を継ぎました。
同じように秀業も伊庭秀俊に道場を継がせ、八郎は後に秀俊の養子となって道場を受け継ぐ形となりました。
幼い頃の八郎はあまり剣術に興味を示さなかったようで、漢学や蘭学などの学問を好んでいました。しかし武芸を始めるとすぐに素質を発揮し、「伊庭の麒麟児」の異名を取りました。
一説によればこの時期、後に新撰組となる試衛館の土方歳三と親交があり、たびたび遊びに行っていたそうです。これを示す史料は乏しいものの、いくつかのルートからの伝聞として伝わっています。近藤勇の父は羽振りがよかったそうで、しょっちゅう遊びに来ていた八郎も一緒に、試衛館の門弟を連れてそばを食べに行ったと。

将軍護衛役から伏見の戦い

1865年に、第二次長州征伐が起こると、八郎は将軍家茂の護衛として働きました。しかしこの戦争は長州軍の近代装備によって幕府軍が粉砕されるという事態に遭い、劣勢のままに家茂が没してしまいます。
将軍の死を名目として長州と停戦して兵を引き上げましたが、実情は敗北。
幕府側も軍制改革の必要に迫られました。八郎は新しく組織された遊撃隊に所属し、鳥羽伏見の戦いに参加します。しかしこの戦いも幕府軍の敗北に終わります。戦闘には初参加だった八郎としては、初陣から負け戦となりました。

函館、五稜郭まで

淀城への入城が叶わなかった幕府軍は大阪城まで退避しますが、将軍慶喜が江戸城にこっそりと帰ってしまったため、軍勢も慌てて江戸を目指します。
江戸では勝海舟が西郷隆盛との間で無血開城を取り付け、戦火を免れようとしました。しかし一部の幕府軍は投降せず、彰義隊となって上野に立て籠もる事態となりました。
八郎達遊撃隊は、現千葉県木更津市の藩主だった林忠崇に協力を求めたのですが、なんと忠崇はまとまらない藩論に業を煮やしたのか、自ら脱藩して遊撃隊に参加することにしました。彰義隊が上野で戦い始めると、遊撃隊は箱根を押さえに行きました。新政府軍の江戸到着を遅らせるため、その通行路を制圧しておこうというわけです。
しかし箱根は小田原藩の管轄下にあり、小田原藩は遊撃隊に対して友好的ではありませんでした。外交的努力もむなしく最終的には戦闘に発展し、八郎はここで深手を負ってしまいます。左手首の皮一枚を残して斬られたとあり、以後右腕一本で刀を振るうこととなりました。

怪我を負った八郎は、その後ひとまず横浜で治療を受けました。他の仲間達は奥州での戦いに参加したので、ここで別れることになりました。旧幕府軍の残党は戦場を北海道、函館に移して最後の抵抗に移ります。
八郎もその戦い参加するため、イギリスの船に頼み込んで函館まで連れて行ってもらいました。
函館では公職選挙が行われ、総裁を初めとした役職を士官達の選挙によって選出しました。八郎は遊撃隊で隊長を務めていたとはいえ、一戦士でしかありませんでしたので、得票は陸軍奉行での一票に留まりましたが、歩兵頭並、第一連隊第二大隊の隊長という役目を与えられました。
片腕ながら勇猛な戦いぶりを見せた八郎でしたが、戦闘中に被弾した胸の傷が致命傷となり、回復の見込みがなくなりました。傷を負いながらも戦場となる五稜郭への参加を希望し、最後まで最前線に身を置きました。
開城の前日、榎本武揚に勧められた毒薬を飲んで自決。享年は二十六でした。

伊庭八郎の名言集です。

「朝涼や 人より先へ 渡り舟」(征西日記)

「其の昔 都のあとや せみしぐれ」(征西日記)

「あめの日は いとど恋しく 思ひけり 我良き友は いずこなるらめ」

「待てよ君 冥土も共にと 思ひしに しばし後るる 身こそ悲しき」

コメント

タイトルとURLをコピーしました