河井継之助の名言集です。

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幕末の人物

自己を貫き通した人物の多い幕末ですが、中でも継之助は我の強い人物でした。敵も味方も多く、味方には頼られ、敵には恐れられる典型と言えます。

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活躍を始めるまで

1827年の生まれです。河井氏は越後長岡藩で120石の禄高を与えられていました。
少年期から頑固者で、剣術や馬術を教わっても我流で通し、師匠にあきれられる始末でした。二十代の半ばには江戸に遊学に出かけたのですが、そこでも自分の気に入ったものだけ熱心に学ぶという姿勢でした。
ある塾では気に入った本がないので他へ移り、ある塾では講義そっちのけで書を写しました。佐久間象山のところでは、象山自身のことは気に入らなかったようですが、授業の内容は評価していたようです。
この不遜な態度は継之助の人生で一貫しています。主君への忠誠は貫かれていますが、その他の者に対しては、常に正しいと思うことを押し通しました。

藩政改革

継之助の最高の幸運は、藩主が継之助の資質を認めてくれたことだと思います。どれほど臣下が優秀でも、それを見抜き、歓迎して用いることの出来ない主君であれば、それで終わりです。そういう物語がどれだけあることか。
江戸で勉強中、黒船が来航しました。このとき家臣達の意見を募った藩主に対し、やはり思うままを述べた継之助は、藩主に見いだされお役目を与えられて長岡藩へと戻りました。
しかし、藩主の支持はあるにしても、強硬な改革は家老達の反発を招き、この段階では改革を断念。二ヶ月で辞職しています。
しかしこれから十年ほどの後、継之助の苛烈な改革が実現するのです。
長岡藩主が京都所司代や老中に任じられましたが、これは継之助の進言もあって、早期に辞任しています。途中、言いたいことを言わねばいられない継之助の性格が災いして、一時お役目を解かれたりもしましたが、再び抜擢されて藩政の改革に着手します。
この改革の内容は非常に極端とも言え、一部の家老には敵視されることとなりました。
特に敵を作ったのが、禄高の平均化です。百石を超える禄高のものからは減らし、百石に満たないものには加えるというやり方でした。
二千石の知行を与えられていた主席家老の禄高が五百石まで減らされました。千石以上のものでも四百石。というように、大幅な減収です。現代でも公務員の給料を減らすべきという論調はありますが、75%削減しろという要求をすることはないでしょう。
他に、軍制改革なども行いました。刀や槍という装備を廃止して、西洋式の銃剣部隊に統一しました。ただ、どうやら「使い慣れない武器は死んでも使いたくない」と、継之助並みに強情だった者がいたようで、彼だけは特別に除外された様子です。

戊辰戦争

薩摩と長州が王政を復古し、倒幕の軍を進めたとき、継之助は幕府を擁護する姿勢を見せました。長岡藩牧野氏は徳川氏の譜代大名だったのです。やはり、恩義に背くことは出来なかったのでしょう。
しかし鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗走したことで、継之助は江戸に向かいました。藩邸から家財まで売り払い、作った大金で米を取引して利益を上げ、そうやって用意した資金で大量の武器を購入したのです。
当時最新鋭のアームストロング砲、ガトリング砲、スナイドル銃などです。ガトリング砲は当時の日本に三門しかなかったと言われていますが、その一門を小藩の長岡藩が持っていたことになります。
継之助はこれら新型装備を使って戦争をしたかったわけではないようです。説得をするためにはまず力をつける必要があるということで武装したのですが、そうして準備して説得を試みたものの全く相手にされませんでした。
そのため、実際に新政府軍はこれらの装備を敵に回すことになりました。
長岡藩の武装は新式であり、継之助の統率も見事であったため、兵力に勝る新政府軍も最初は苦戦を強いられました。しかし衆寡敵せず。一度取られた城を取り返す活躍を見せましたが、その際に狙撃されて負傷。
反撃を受けて退却中、八十里峠を越えました。この峠にちなんで詠んだ句が、「八十里 腰抜け武士の 越す峠」。越後人として、韻を踏んだのがこの句でしょうか。
すでに破傷風が手遅れの状態にあったといい、名医の手当を受けるも絶命しました。死に際しては、今後の方針や、主君の世継ぎの亡命などを指示しています。四十一歳でした。

河井継之助の名言集です。

人というものが世にあるうち、もっとも大切なのは出処進退の四字でございます。
そのうち進むと出づるは人の助けを要さねばならないが、処ると退くは、人の力をかりずともよく、自分でできるもの。
拙者が今大役を断ったのは退いて野におる、ということで自ら決すべきことでござる。天地に恥ずるところなし。
天下になくては成らぬ人になるか、有ってはならぬ人となれ、沈香もたけ屁もこけ。
牛羊となって人の血や肉に化してしまうか、豺狼となって人間の血や肉をくらいつくすかどちらかとなれ。
人間というものは、棺桶の中に入れられて、上から蓋をされ、釘を打たれ、土の中へ埋められて、それからの心でなければ何の役にも立たぬ。
「一忍可以支百勇一静可以制百動」(一忍以って百勇を支うべく 一静以って百動を制すべし)
何でもよい、一つ上手であればよいものだ。煙草延しでも、上手でだければ名人といわれる。これからは何か一つ覚えて居らねばならぬ。
一年も居馴れてしまえば、ちょうど冬の寝床のように自分の体温のぬくもりが江戸という寝床に伝わってしまう。そうなれば住みやすくはあるが、物を考えなくなる。寝床は冷ややかなほうがいい。
人間万事、いざ行動しようとすれば、この種の矛盾が群がるように前後左右に取り囲んでくる。
大は天下のことから、小は嫁姑のことに至るまですべて矛盾に満ちている。この矛盾に、即決対処できる人間になるのが、俺の学問の道だ。
不遇を憤るような、その程度の未熟さでは、とうてい人物とはいえぬ。
民者国之本 吏者民之雇(民は国の本 吏は民の雇い)
民を安ずるは恩威にあり。
無恩の威と無威の恩は、二つながら無益、基本は公と明とにあり。
公けなれば人怨まず、明らかなれば人欺かず、この心を以て、善と悪とを見分け、賞と罰とを行ふときは、何事かならざるなし。 有才の人、徳なければ人服さず、有徳者も才なければ事立たず。
月代というのは)眼と心とを一つにして、一遍にズッと剃るものだ。
心と眼と手さえ一致すれば傷などつけることがない。これは剃刀ばかりでなく、何事もこの秘伝を忘れてはならぬ。
実に火事ほど恐ろしいものはない。他人から来る火は仕方がないが、自分から出した火は取り返しがつかぬ。
世間には「資治通鑑」を三カ月で読んだとか、「二十一史」を半年に読んだなどと自慢する者があるが、そんな者の気が知れない。
会心の文字は、何度でも読むのがいい。

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