沖田総司の名言です。

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幕末の人物
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大刀を損じれば小刀を抜きなさい。小刀を損じれば鞘で、鞘を損じれば素手でも戦いなさい 。戦場では誰も待ってはくれないのですよ。

幼名は宗次郎。新撰組一番隊組長にして新撰組最強の男と呼び声高い沖田総司です。
沖田総司が強いことはよく知られています。周知の事実です。また病弱で24歳の若さで亡くなっているということも知っている方は多いです。
猛者揃いの一番隊を率いながら、いつも冗談を云って笑っている明るいイメージがあります。子どものような天真爛漫さが沖田にはついてまわります。
しかし、その剣で多くの人間を殺めてきたことも事実です。同じく新撰組にいる「人斬り鍬次郎」こと大石鍬次郎と並ぶ人斬りです。
それなのになぜか沖田にはそのような陰惨なイメージがつきまといません。
沖田が一切私欲に走らなかったことが原因なのかもしれません。
肺結核で死の間際、黒猫を斬れば治るという迷信を信じて剣をひきますが、斬れませんでした。自分のためには剣を振るわない。それでいて強い。そんなところが沖田の魅力なのかもしれません。
永倉新八は後世、弟子たちに「沖田は猛者の剣、斎藤は無敵の剣」と評しました。

試衛館の内弟子となる

1844年陸奥国白河藩藩士、沖田勝次郎とミキのもとに長男として生まれます。翌年に父親が亡くなり家督は姉のみつが林太郎という婿養子を迎えて相続しています。母親もすぐに泣くし、沖田は姉に育てられました。
9歳という若さで試衛館の内弟子となり、めきめきと力をつけてすぐに塾頭を務めます。
一説によると沖田は天然理心流剣術の免許皆伝の腕前だったとされます。しかもそれだけではなく北辰一刀流剣術でも免許皆伝でした。
勝負をすれば土方歳三はおろか、近藤勇も勝てないだろうという周囲の評価です。
1856年には12歳で調布へ出稽古に赴いています。近藤のことを恩師だと慕っていた様子が見受けられます。

新撰組の発足

1863年、19歳のときです。将軍上洛の警護の「浪士組」を募る機会があり、試衛館のメンバーはほとんど参加の意向で本体に合流しています。この集まりが尊王攘夷のためであると知った近藤勇は分かれて京に残ることを決断します。
二条城の会津藩主・松平容保が京都守護職に就き、「浪士組」は会津預かりとなりました。名前も「壬生浪士組」と改名しました。新撰組のことを陰で壬生狼(みぶろ)と呼ぶのはここからきています。
1563年3月、沖田は初めて人を斬り殺します。浪士組を組織した清河八郎なきあとの幕府側の責任者である殿内義雄です。派閥形成のために人を集めようとしたところ、近藤にしこたま飲まされ、四条大橋で沖田に斬られています。
その後も派閥争いは続き、9月には局長である水戸派の筆頭・芹沢鴨の寝込みを襲って暗殺。大西町奉行所与力の内山彦次郎も暗殺をしています。
8月に新撰組の隊名を下賜されていた近藤たちはこれで完全に敵対派閥を潰すことができました。

肺結核で死去

諸説ありますが、沖田は肺結核により短い生涯を遂げています。
皆の知るところになったのは1864年の池田屋事件で、近藤と共に一番に飛び込んでひとり斬って吐血します。
ここから出陣の機会は減っていきます。そして、1865に起きた山南の脱走事件。
沖田は新撰組総長の山南敬助を慕っていました。しかし新勢力の伊東甲子太郎らに圧されてきたこともあるのでしょう。突如新撰組を抜け脱走をします。
追っ手は沖田ただひとり。見つけることは困難なはずですが、意外にも近江の草津であっさりと捕まってしまします。連れ戻された山南は切腹、介錯は沖田が務めました。
1867年以降はめっきり体力も落ち、近藤の妾宅で寝泊まりをしていました。
それでも1868年に鳥羽・伏見の戦いが起こり、沖田は船に乗り江戸へ護送されます。
幕府医師・松本良順により千駄ヶ谷の植木屋で匿われ、近藤斬首の二ヶ月後、息を引き取りました。最期まで近藤の死を知らなかったようです。

沖田総司の辞世の句です。

動かねば 闇にへだつや 花と水
沖田総司にまつわる伝説は幾つもあります。使用していた刀は「菊一文字則宗」。しかしあまりに高価で大名でも入手困難な国宝級なために否定的な意見が多いです。
もうひとつは平正眼からの三段突きです。踏み込む足音ひとつで三度突かれるという沖田の必殺技です。つまり、一度だけ突かれたと思ったら三度も突かれていたという技です。
そのため稽古が厳しく、「刀で斬るな、体で斬れ!」と教え込んでいました。
人斬りでありながら愛されるキャラクターの沖田総司。美形で、色白で小柄な青年といった感じを受けますが、その実、身長は高かったそうです。写真が現存していないのが残念です。

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