大久保利通といえば、西郷隆盛と並ぶ薩摩藩出身の人物です。西郷と比べると、幕末というよりも、明治維新後に活躍した印象があります。
大久保利通は、1830年、薩摩の下級武士の家にまれます。幼いときから学問には優れた才能を発揮し、下級武士ながら当時薩摩藩主であった島津斉彬に見いだされ、1858年には、西郷とともに徒目付(徒目付)という役職に就きます。当時の島津斉彬は、公武合体派を取っていて、自身の娘である篤姫を十三代将軍徳川家定に嫁がせます。篤姫を通して一橋慶喜を将軍にさせようと奮闘していました。
1858年に井伊直弼が大老に就任すると、十四代将軍に紀伊藩主の徳川慶福を任命。島津斉彬はこれに反発し挙兵しようするも、直前になって体調不良により急逝してしまいます。その後、薩摩藩の実権を握ったのは島津久光でした。久光は斉彬と対立していたため、西郷のことをあまり評価していませんでした。そのため、西郷を奄美大島へ島送りにして約三年間幽閉していました。
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二度の西郷復帰「自分ほど西郷隆盛を知っている者はいない」
大久保なくして西郷の活躍はありませんでした。島津久光は公武合体派の勢力を拡大するために京都で活動をしようと試みますが、久光には京都につてがありませんでした。そこで大久保は西郷を推薦します。西郷は前半種の斉彬が生きていたころ、何度も京都と江戸と鹿児島を行き来していました。そのため京都にもつてがあり、薩摩が京都で勢力を拡大するには西郷がうってつけだと提案します。
西郷は三年ぶりに薩摩へ戻ってくることになります。しかし、西郷は、「久光は前藩主の斉彬ほどの人望はない。京都へ行っても無駄だ」と主張し、久光の反感を買います。さらに、久光は西郷に薩摩に待機することを命じていたのですが、西郷はその命令を破って大阪へ行ってしまいます。久光はまたも西郷に島流しの罰則をあたえました。
再び西郷が呼び戻されるのは64年のことでした。前年には池田屋事件が起こり、尊王攘夷派の過激な行動が目立つようになってきたころ、幕府は尊王攘夷派の中心であった長州藩を処分することを決定します。
このとき、久光は薩摩の勢力を拡大しようと再び京都へ向かいますが、このころは京都での薩摩の評判は良くありません。イギリスとの交易により、物価が高騰して町人たちの不満はピークでした。そのため薩摩の人が京都で活躍するのが難しいと判断した大久保は、またも西郷を推薦します。西郷は薩摩の商人を京都から帰します。その後の長州藩士によっておこされた禁門の変でも、長州藩を撃退するだけでなく、他藩の救援をするなどの大活躍を見せ、幕府や朝廷からの信頼を得ることに成功します。
このように、大久保は西郷を二度も島流しから呼び戻して、西郷もそれに答える活躍をします。倒幕運動は、西郷だけでなく大久保なしではありえなかったのです。西郷の一番の理解者で、彼の力をもっとも発揮させた男。それが大久保利通です。
王政復古の大号令
大久保利通、西郷隆盛、岩倉具視の三者を中心に計画されたものです。王政復古の大号令が発せられると、御所内の小御所において明治天皇臨席の下で最初の三職会議がおこなわれました。いわゆる「小御所会議」です。
岩倉は天皇中心の政治で行うことを宣言しただけでなく、徳川家に対して将軍以外の役職もすべて返上し、領地も差し出すという「辞官・納地」を要求します。会議の担当は大久保、岩倉。西郷の役割は御所の警備の指揮。御所への入口に兵を率いて完全に封鎖することでした。
明治維新後
西郷と勝海舟の会談により江戸城の無血開城は達成されたのですが西郷が鹿児島に帰国した後、明治新政府には続発する農民一揆や民の不満など困難な問題が生じてきました。
当時の新政府の中心人物は、公家の三条実美、岩倉具視、長州藩出身の木戸孝允、そして薩摩藩出身の大久保利通の四人です。
版籍奉還
すべての土地と人民は天皇が所有するという王土王民の思想を根拠にして、藩主に土地と人民を朝廷に返させます。大藩である薩摩藩の大久保、長州藩の広沢真臣、土佐藩の板垣退助が代表となって、天皇・政府への返還に合意しました。
廃藩置県
版籍奉還後も藩主は、知藩事としてそのまま藩政を行っていたので、新政府は、知藩事を廃止して中央からあらたに府知事や県令を派遣する廃藩置県を断行します。明治政府の中央集権体制確立するために大久保は、鹿児島の西郷を東京に呼び戻します。
征韓論
大久保は岩倉使節団の副使として外遊中、発生した征韓論争で西郷と対立します。
西郷は戦争をしないために平和的な使節を派遣したいと主張していました。そして西郷は正式に朝鮮使節の全権大使に任命されます。
しかし洋行から帰ってきた岩倉と大久保が猛烈に反対。岩倉と大久保は再び閣議を開き直して、西郷の朝鮮派遣に反対意見を述べます。西郷の意見は否決され、この争いにより西郷は政界から去り鹿児島に戻りました。これが幕末より共に戦った大久保利通と西郷隆盛の今生の別れとなります。鹿児島に戻った西郷は、鹿児島の士族たちの不満を抱えるようにして明治政府を相手に西南戦争を起こして自決します。
おはんの死と共に、新しか日本がうまれる。強か日本が
大久保が西郷死亡の報を受け、号泣しながら発した言葉です。明治政府の中心として残った大久保も西郷が自害した翌年に不平士族に暗殺されます。享年四十八歳でした。
大久保利通の名言です。
目的を達成する為には人間対人間のうじうじした関係に沈みこんでいたら物事は進まない。
そういうものを振り切って、前に進む。
今日のママニシテ瓦解せんよりは、寧(むし)ろ大英断に出て瓦解いたしたらん
現在のまま何も変わらないでいても瓦解する。それならば、むしろ大きく決断して打ち壊してしまったほうがいい。
彼は彼、我は我でいこうよ
この難を逃げ候こと本懐にあらず
国家創業の折には、難事は常に起こるものである。そこに自分ひとりでも国家を維持するほどの器がなければ、つらさや苦しみを耐え忍んで、志を成すことなど、できはしない。
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