松平春嶽の名言です。

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幕末の人物
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「我に才略無く我に奇無し。常に衆言を聴きて宜しきところに従ふ」

福井藩の藩主であり、四賢候の一人に数えられます。幕末から明治初期に活躍をし、その影響は後の時代にもおよび、現代にも受け継がれています。

活躍を始めるまで

1828年、徳川家御三卿の一つ、田安徳川家の徳川斉匡の八男として誕生しました。時の将軍徳川家慶とは従弟に当たります。春嶽が幼い頃、松山藩へ養子に出される約束が交わされていました。それは1837年には正式に決定したのですが、翌年、福井藩主が亡くなりました。急遽予定が変更され、春嶽は福井藩の養子となって藩主を継承することとなったのです。
すぐに元服をすませ、家慶の一字を拝領して慶永と名乗りました。
わずか十歳で藩主となった春嶽ですが、お飾りではありませんでした。就任直後には全藩士の俸禄を三年間にわたって五割を削減し、藩主の出費も五年間抑制することを定めました。福井藩には多額の借金があり、先代は九十万両の負債にあえいでいたのです。
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春嶽と慶喜

四賢候は公武合体派ということで一致しており、公武合体派はいずれも朝廷と幕府の協力体制を、幕府主導で実現することを目指していました。春嶽もまた、幕府を維持し、盛り立てることを目指していました。
井伊直弼との間で起こった将軍継嗣問題でも、次期将軍として一橋慶喜を推薦し、そのために安政の大獄を受けて隠居、謹慎に追い込まれています。慶喜の英明さは広く知られていることであり、同じく優れた人物であった春嶽もその能力を見抜いていたのだと思います。
直弼が暗殺された後、慶喜は将軍後見職に就任し、春嶽は政事総裁職としてその補佐に当たりました。二人は共に公武合体を推進しています。
しかしながら、春嶽と慶喜が特別に親密であったかというとそれはまた別な話です。さまざまな妨害をくぐり抜けてようやくひとまずの形になった、公武合体の象徴であった参与会議では、慶喜はあえて春嶽らを罵倒し関係を悪化させて、会議を解散に仕向けています。

ではそれで仲違いをして、以後険悪になったかといえばそんなこともなく、倒幕の流れが決定的になった際も、最後まで徳川家の温存を主張していました。人の好き嫌いで態度を変え、自分の行動をうろつかせるというのは賢候と呼ばれるような人物としては、ふさわしくないことなのでしょう。
同じく徳川家を守る意志の堅かった山内容堂は酒癖が悪かったために早々に立場をなくしてしまいましたが、春嶽の試みはもう少しで実を結ぶところまでいきました。
最後に幕府軍の暴発が抑えきれていれば、慶喜も新政府に参加出来ていたはずなのです。

明道館

現代の福井県では、例年小中学生の成績が非常に良好です。毎年行われる全国テストではいつも上位に位置しています。また、日本教職員組合の加入率でも全国トップレベルになっています。
この現状に、直接的な影響があるかは定かではありませんが、春嶽は教育を重視した人物でもありました。優れた人物を育成するべく明道館という藩校を創設しました。講師には、春嶽が熊本藩から招聘した横井小楠などがいます。
明道館は場所を変え名を変え、今も福井県に流れを汲む高校がありますが、これまでには多数の逸材を輩出してきました。総理大臣に、東京都知事、最高裁判所の長官に学者などなど。様々な分野での文化人が名を連ねています。
身分を問わず優れた人材を求めた春嶽としては、自分が作った学校から多数の人材が誕生していることはこの上ない喜びなのではないでしょうか。

明治時代

王政復古が宣言され、新しい政府でも春嶽には地位が用意されていました。内国事務総督に、民部卿、大蔵卿などに任じられましたが、程なくして官職を辞して政治の世界から身を引きました。明治という元号を提案したのは春嶽だといわれています。
晩年は書に親しみ、いくつもの文書を残しています。1890年に病気で亡くなりました。

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