幕末維新の主役が、薩摩や長州の武士たちであったことは間違いありません。しかし、彼らの革命に「天皇」という絶対的な大義名分を与え、宮廷の中から巧みに時勢を操った一人の公家がいました。その名は、岩倉具視。彼は、維新十傑の中で唯一の公家であり、その卓越した政治力と戦略で、倒幕、そして明治新国家の樹立を成し遂げた、まさに「維新の黒幕」ともいうべき大政治家でした。この記事では、巧みな「漸進主義」で激動の時代を生き抜き、日本の進路を決定づけた岩倉具視の生涯と、その信念が込められた名言を深く掘り下げていきます。
岩倉具視とは:朝廷から日本を動かした大戦略家
岩倉具視の政治家としての最大の特徴は、その柔軟な「漸進主義(ぜんしんしゅぎ)」にあります。彼は、藤田東湖のような過激な攘夷思想家でも、大久保利通のような冷徹なリアリストでもありませんでした。彼は、状況に応じて、時には幕府と協調し(公武合体)、時には幕府を切り捨てる(王政復古)というように、常に最も現実的で効果的な手段を選択しました。その態度は、時に「曖昧である」と過激派から批判され、命を狙われる原因ともなりました。しかし、彼の目的は常に一貫していました。それは、形骸化していた天皇と朝廷の権威を復活させ、天皇を中心とした強力な統一国家を築くこと。その大目的のためならば、彼は手段を選ばなかったのです。
下級公家からの立身
1825年、下級公家の次男として生まれた具視は、その才能を認められて岩倉家の養子となります。身分や家格が絶対であった公家の世界において、彼は早くから「家格にこだわらず、能力のある者を登用すべきだ」と主張するなど、革新的な思想を持っていました。
幕末の宮廷における暗躍
攘夷論と公武合体
ペリー来航後、日米修好通商条約の勅許を求めた幕府に対し、具視は他の公家と共に猛反対し、孝明天皇に攘夷を主張させます。これは、外交問題を利用して、幕府に対する朝廷の優位性を示そうという、高度な政治的駆け引きでした。しかし、彼は単なる頑迷な攘夷論者ではありませんでした。彼は、いずれ外国と対等に渡り合うためには、まず相手を知る必要があると考え、外国への使節派遣を主張するなど、現実的な視点も併せ持っていました。
さらに、孝明天皇の妹・和宮の将軍・徳川家茂への降嫁を推進します。これは、朝廷と幕府の連携を強化する「公武合体」政策の一環であり、幕府をコントロール下に置こうという、彼の深謀遠慮の表れでした。
過激派からの逃亡と雌伏の時
しかし、この公武合体政策は、過激な尊王攘夷派の志士たちから「幕府に媚びる裏切り者」と見なされ、具視は命を狙われるようになります。彼は全ての役職を辞し、洛北の岩倉村に隠棲。約5年間に及ぶ雌伏の時を過ごすことになりました。しかし、彼はただ隠れていただけではありません。この時期、彼は密かに薩摩藩の大久保利通らと接触し、来るべき次の時代への布石を着々と打っていたのです。
王政復古のグランドデザイナー
禁門の変などで過激な尊王攘夷派が失脚すると、具視はついに政治の表舞台に復帰。ここから、彼の真骨頂である、革命のグランドデザイナーとしての大仕事が始まります。
倒幕の密勅と王政復古の大号令
復帰した具視は、もはや生ぬるい公武合体など考えていませんでした。彼は大久保利通と連携し、武力による倒幕を決意。薩摩・長州両藩に「倒幕の密勅」を降下させることに成功します。そして1867年12月9日、彼はクーデターを断行。「王政復古の大号令」を発し、摂政・関白や征夷大将軍といった古い役職を全て廃止し、天皇親政の新政府を樹立することを宣言しました。
小御所会議での決断
同日夜、御所内の小御所で行われた会議において、具視は新政府の中心として、前将軍・徳川慶喜に対し、全ての官職と領地を朝廷に返上する「辞官納地」を決定。これにより、鎌倉時代から約700年続いた武家政権は、名実ともに完全に終焉を迎えたのです。武士たちの力を背景にしながら、それを完全に無力化する決定を、公家である彼が下した。まさに歴史的な瞬間でした。
明治の元勲として:新国家の建設
明治新政府においても、具視は右大臣として、大久保らと共に国家建設の中心を担います。
岩倉使節団:世界を見た公家
1871年、彼は特命全権大使として、大久保や木戸孝允、伊藤博文らを率いて、一年半以上にわたる欧米視察の旅に出ます。「岩倉使節団」です。この旅で、彼は西洋の進んだ文明、特に鉄道などのインフラの重要性を目の当たりにし、大きな衝撃を受けます。そして、日本の近代化が急務であることを痛感。帰国後は、日本の鉄道網整備などに尽力しました。
「新しい物好きで、古くさい」
岩倉具視は、鉄道のような新しい技術は積極的に取り入れる「新しい物好き」でした。しかしその一方で、明治政府が「断髪令」を出した後も、「髷は日本人の証」だとして、なかなか髪を切ろうとしなかったといいます。この逸話は、彼の「漸進主義」を象徴しています。つまり、「国家の発展に必要不可欠なものは、たとえ馴染みがなくても取り入れる。しかし、文化や伝統に関わるものは、慣れ親しんだものを大切にする」という、彼のバランス感覚の表れだったのです。
憲法制定と最期の時
晩年、彼が心血を注いだのは憲法制定問題でした。イギリス型の議院内閣制を主張する大隈重信と、天皇に強い権限を持たせるプロイセン型の憲法を目指す伊藤博文が対立する中、彼は伊藤の案を支持します。これもまた、天皇を中心とする国家という、彼の終始一貫した理想と、急激な変化を避ける漸進主義の考え方に基づくものでした。しかし、その完成を見ることなく、1883年、咽頭がんのため死去。享年58。維新十傑、最後の生き残りが世を去った瞬間でした。
岩倉具視の名言集
「成敗は天なり、死生は命なり、失敗して死すとも豈後世に恥じんや」
(現代語訳:成功するか失敗するかは天命であり、生きるか死ぬかもまた運命である。たとえ志半ばで失敗して死んだとしても、後世に対して恥じることなどあろうか、いや、ない。)
これは、大業を成すためには、死をも恐れない覚悟が必要であるという、彼の強い意志を示しています。
「我が国小なりといえども誠によく上下同心その目的を一にし、務めて国力を培養せば、宇内に雄飛し万国に対立するの大業甚だ難しきにあらざるべし」
(現代語訳:我が国は小さい国ではあるが、もし本当に、身分の上下なく全ての国民が心を一つにし、国力を高めることに努めるならば、世界で活躍し、諸外国と対等に渡り合うという偉大な事業も、決して難しいことではないだろう。)
これは、岩倉使節団を経て、彼が抱いた新国家日本のビジョンそのものです。国民が一丸となって近代化を進めることの重要性を説いています。
「敷島の道こそわきて仰かるれ すなほなる世の教えとおもへは」
(敷島の道(日本の伝統的な和歌の道)こそが、特に尊敬されるべきだ。なぜなら、それが素直でまっすぐな世の中の教えだと思うからだ。)
この和歌は、彼の伝統を重んじる保守的な一面を表しています。近代化を進める一方で、日本の古来の精神や文化を深く愛していたことがうかがえます。
まとめ:伝統と革新を繋いだ不屈の政治家
岩倉具視は、その生涯を通じて、常に二つの世界の間に立つ人物でした。古い公家の世界と、新しい武士の世界。伝統と、革新。攘夷と、開国。彼は、そのいずれか一方に偏ることなく、双方を巧みに利用し、そして統合することで、「天皇を中心とする近代日本」という、全く新しい国家を創り上げました。その道のりは、決して平坦ではなく、幾度も命の危険に晒され、政治的に孤立しました。しかし、彼はその不屈の精神と、卓越した戦略で、全ての困難を乗り越えてみせました。岩倉具視は、まさに古い日本の伝統と、新しい西洋の文明とを繋ぎ、明治という時代の扉を開いた、偉大な政治家でした。
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