幕末から明治という大変革の時代。多くの志士たちが剣を手に取り、政治の世界で国を動かそうとする中、ただ一人、「商い」の力で新しい日本の礎を築き上げようとした男がいました。その名は、岩崎弥太郎。土佐の地下浪人(じげろうにん)という低い身分から身を起こし、一代で巨大財閥「三菱」を築き上げた、日本近代化の最大の功労者の一人です。この記事では、武士の魂と商人の才覚を併せ持ち、時には「国賊」と罵られながらも、不屈の精神で日本の経済を動かした岩崎弥太郎の生涯と、その成功哲学が凝縮された名言の数々を深く掘り下げていきます。
岩崎弥太郎とは:武士から近代日本の礎を築いた実業家へ
岩崎弥太郎は、坂本龍馬と同じく、土佐藩の身分制度の末端に生まれました。しかし、彼が手にした武器は刀ではなく、算術と商才でした。彼の生涯は、封建的な武士の価値観から、実利を重んじる近代的な資本主義の価値観へと、日本社会が移行していく様を、まさに体現したものでした。「小僧に頭を下げると思うから情けないのだ。金に頭を下げるのだ」という彼の言葉は、プライドよりも実利を重んじる、その徹底した現実主義を象-徴しています。しかし、彼は単なる金儲けに走ったわけではありません。その根底には、商いを通じて日本を豊かにし、欧米列強と対等に渡り合える強い国を創るという、壮大な愛国心があったのです。
土佐の地下浪人と吉田東洋との出会い
1835年、土佐の地下浪人(郷士よりもさらに低い階級の武士)の家に生まれた弥太郎は、幼い頃から学問に優れた才能を発揮。土佐藩随一の学者であった改革派の重鎮・吉田東洋の門下生となり、その才覚を認められます。学問で身を立てることを夢見て江戸へ遊学しますが、父が喧嘩で投獄されたことを知り、帰郷。父の無実を訴えるも聞き入れられず、激高した弥太郎は奉行所の門に「官は賄賂をもって成り、獄は愛憎によりて決す(役所は賄賂で動き、牢獄は好き嫌いで決まる)」と落書きし、自らも投獄されてしまいます。
不遇の投獄と商いへの目覚め
しかし、この不遇が彼の運命を大きく変えました。獄中で同室になった商人から、算術や商売のノウハウを学んだのです。この経験が、彼のなかに眠っていた「商人」としての才能を目覚めさせることになりました。出獄後、再び吉田東洋の私塾に入り、ここで後の盟友となる後藤象二郎と出会います。
長崎での暗躍と九死に一生
吉田東洋は、藩の産業を育て、海外貿易を推し進める「殖産興業」の思想を持っていました。その実行者として、東洋は弥太郎の才能に目をつけます。
藩の商務と海外事情の探求
東洋の抜擢により、弥太郎は藩の下級役人として、長崎で藩の貿易事業に携わることになります。長崎は、当時日本で唯一、世界に開かれた窓口でした。ここで彼は、海外の情勢を学び、貿易の実務を叩き込まれ、後の事業の基礎となる貴重な経験を積みました。
恩師の暗殺と井上左市郎の死
1862年、恩師である吉田東洋が、尊王攘夷を掲げる土佐勤王党によって暗殺されるという悲劇が起こります。弥太郎は、犯人探索の任を受け、同僚の井上左市郎と共に大坂へ向かいます。しかし、弥太郎は些細な手続きの不備で土佐へ呼び戻されることに。その直後、一人残った井上が、東洋を暗殺したのと同じ刺客(岡田以蔵と言われる)によって殺害されてしまいます。もし、弥太郎の帰国が一日遅れていたら、彼の命はなかったかもしれません。この九死に一生を得た経験は、彼の胆力をさらに強固なものにしました。
三菱商会設立:海運王への道
東洋の死後、藩内で実権を握った後藤象二郎は、弥太郎の商才を高く評価し、彼を藩の商務組織の責任者に抜擢します。ここから、弥太郎の快進撃が始まります。
九十九商会から三菱商会へ
弥太郎は、藩の貿易・経理を一手に担い、その手腕を発揮。やがて、藩の商会は「九十九(つくも)商会」と改称し、海運業に進出します。そして明治維新後の1873年、弥太郎は生涯最大のチャンスを掴みます。後藤象二郎の計らいで、土佐藩が所有していた複数の蒸気船を、藩の負債ごと引き受けるという破格の条件で手に入れ、個人の海運会社「三菱商会」を設立。ここに、巨大財閥・三菱の歴史が幕を開けたのです。
藩札買い占めと政商としての台頭
弥太郎は、ただ船を動かしていただけではありません。彼は、明治政府の貨幣改革の情報をいち早く掴むと、価値がなくなる寸前の各藩の「藩札」を安値で大量に買い占め、それを新政府に額面通り買い取らせることで、莫大な創立資金を得ました。この情報を流したのが、政府高官となっていた後藤象二郎でした。これ以降、弥太郎と三菱は、政府と密接に結びついた「政商」として、急成長を遂げていきます。
「国賊」か、国家の柱か:国策との一体化
三菱の発展は、常に国家の危機と共にあるものでした。
台湾出兵と西南戦争
1874年の台湾出兵、そして1877年の西南戦争。これらの戦争において、三菱は軍事輸送を一手に引き受け、新政府の勝利に大きく貢献しました。これにより、政府の絶対的な信頼を勝ち取ると同時に、莫大な利益を手にします。外国の海運会社に依存していた日本の輸送網を、自らの手で担う。それは、国家の安全保障に貢献するという大義名分と、ライバル会社を排除するという事業戦略が、完璧に一致した瞬間でした。
「三菱を焼き払っても構わないが…」
しかし、この政府との癒着と市場の独占は、「三菱は国賊だ」という激しい批判を呼びます。それに対し、弥太郎はこう言い放ちました。「三菱の汽船をすべて焼き払っても構わない。しかし、そうなって政府は大丈夫なのか」。もはや三菱は、政府が手を出せないほど、国家にとって不可欠な存在になっていたのです。この揺るぎない自信と傲慢ともいえる態度は、彼の権力の大きさを物語っています。
弥太郎の経営哲学:未来を拓く名言集
彼の言葉には、ゼロから巨大企業を築き上げた男の、実践的で力強い哲学が込められています。
「小僧に頭を下げると思うから情けないのだ。金に頭を下げるのだ。」
(プライドが邪魔をして頭を下げられない時、相手ではなく、その先にある「利益」に対して頭を下げているのだと思え。目的のためには、無駄な自尊心は捨てよという教え。)
「部下を優遇し、事業の利益はなるべく多く彼らに分け与えよ。」
(組織を強くするのは、人材である。利益を独占せず、社員に還元することが、さらなる発展に繋がる。)
「およそ事業をするには、まず人に与えることが必要である。それは、必ず大きな利益をもたらすからである。」
(目先の利益を追うな。まず相手に与え、信用を得ることが、結果的に最大の利益となって返ってくる。)
「自信は成事の秘訣であるが、空想は敗事の源泉である。」
(自信は成功の秘訣だが、根拠のない自信は失敗の元だ。事業は、必ず成功するという確信が持てるものを選び、一度始めたら何があってもやり遂げよ。)
「一日中、川の底をのぞいていたとて、魚はけっして取れるものではない。…魚を獲ろうと思えば、常平生からちゃんと網の用意をしておかねばならない。」
(チャンスは待っているだけでは掴めない。いつチャンスが来てもいいように、日頃から準備を怠らない者だけが、成功を手にすることができる。)
「酒樽の栓が抜けたときに、誰しも慌てふためいて閉め直す。しかし底が緩んで少しずつ漏れ出すのには、多くの者が気づかない…樽の中の酒を保とうとするには、栓よりも底漏れの方を大事と見なければならない。」
(突発的な大きな問題には誰でも対処しようとするが、日々の小さな無駄や問題を見過ごしがちだ。しかし、組織を蝕むのは、むしろその小さな綻びである。)
まとめ:商いの力で日本を近代化した男
岩崎弥太郎の生涯は、まさに「競争」の連続でした。藩の役人時代は出世を争い、実業家となってからはライバル会社と、そして最後は国家そのものとさえ渡り合うほどの存在となりました。彼の強引な手法は、多くの敵を作りました。しかし、彼が創り上げた三菱という巨大企業が、その後の日本の造船業、鉱業、貿易、金融を支え、近代化の原動力となったことは紛れもない事実です。彼は、武士が支配した封建の世を、経済が支配する資本主義の世へと、その剛腕で塗り替えてみせました。岩崎弥太郎は、まさしく「商い」の力で、新しい日本を創り上げた、不世出の起業家でした。
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