無刀流の剣客・山岡鉄舟の名言|西郷を説得し、江戸無血開城を導いた「明治の三舟」の生涯

幕末の人物

幕末から明治という大変革期に、その傑出した人格と行動力で日本の歴史を動かした三人の傑物がいました。勝海舟、高橋泥舟、そして山岡鉄舟。彼らは「明治の三舟」と称されます。中でも、剣・禅・書の達人として、そして何よりその比類なき胆力と誠実さで、敵将・西郷隆盛の心を動かし、江戸150万人の命を戦火から救った男が、山岡鉄舟(やまおか てっしゅう)です。

彼は、刀を持たずに相手を制する「無刀流」の境地に至った剣客であり、その生き様そのものが、私利私欲を捨てて公に尽くす武士道の究極の姿でした。この記事では、絶体絶命の危機にあった江戸を救うため、単身敵陣に乗り込んだ最後の侍・山岡鉄舟の壮絶な生涯と、その魂からほとばしる力強い名言の数々を深く掘り下げていきます。

山岡鉄舟とは:私心なかりしか、豪胆なる「肚の人」

山岡鉄舟という人物を語る上で欠かせないのが、その人間的スケールの大きさです。彼は、幕臣の中でも特に槍の名手として知られた家に生まれ、幼少期から文武に励みました。剣の道においては、千葉周作の玄武館で学び、後に自ら「無刀流」を開きます。これは単なる剣術の流派ではなく、「心の刀」で相手を制し、争わずして勝つという、彼の禅的な思想が色濃く反映された生き方の哲学でした。

彼の周りには常に人が集まり、その多くが彼の「肚(はら)」の大きさに魅了されました。「肚」とは、目先の利害や恐怖に動じない、人間の器そのものを指します。金銭や名誉に一切執着せず、どんな逆境にあっても己の信じる道を堂々と歩む。その姿は、敵味方を問わず多くの人々から畏敬の念を集めました。勝海舟が「あれほどの馬鹿は、他に見たことがない」と評した言葉は、計算や損得を度外視して行動する鉄舟への、最大の賛辞だったのです。

江戸無血開城:百万の民を救った、命懸けの談判

慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いに勝利した新政府軍は、15万の大軍で江戸城総攻撃を目前にしていました。江戸の町は、火の海と化す寸前の、まさに絶体絶命の危機にありました。この時、旧幕府の陸軍総裁であった勝海舟は、恭順の意を固め、攻撃中止の交渉を模索します。しかし、官軍の総司令官である西郷隆盛は、駿府(現在の静岡市)に本陣を構え、強硬な姿勢を崩していませんでした。

勝は、西郷と直接交渉するための先遣役として、一人の男に白羽の矢を立てます。それが山岡鉄舟でした。勝は鉄舟に、徳川慶喜の助命と江戸城の平和的明け渡しを求める条件を託し、「西郷に会ってこの条件を呑ませてこい。ただし、生きて帰れると思うな」と告げます。これは、敵陣の真っ只中に単身で乗り込み、総大将と直接交渉せよという、無謀としか思えない命令でした。

「さあ、斬れるものなら斬ってみろ」

鉄舟は、死を覚悟して駿府へ向かいます。道中、官軍の兵士に何度も行く手を阻まれ、殺されそうになりますが、彼は少しも臆することなく言い放ちました。「俺は朝敵徳川慶喜の家臣、山岡鉄舟だ。西郷どんに会うまでは、誰であろうとここを一歩も通さぬ」。その凄まじい気迫と、死を恐れない覚悟の前に、兵士たちは道を開けるしかありませんでした。

ついに西郷との対面にこぎつけた鉄舟。西郷は、徳川慶喜の備前預かりなど、到底受け入れがたい厳しい条件を突きつけます。しかし、鉄舟は一歩も引きませんでした。「我が君(慶喜)にこれほどの寛典をもってしてもなお、ご納得いただけぬと仰せられるか」。彼は、私心のかけらもない、ただただ主君と江戸の民を救いたいという一心で、堂々と西郷に反論しました。その命懸けの誠意と、国家の未来を憂う鉄舟の器の大きさに心を打たれた西郷は、ついに攻撃中止の決断を下し、後の勝と西郷による最終会談の道筋をつけたのです。

新時代への奉仕:明治天皇の「侍従」として

明治維新後、多くの旧幕臣が不遇をかこつ中、鉄舟はその人格を高く評価され、新政府に仕えることになります。彼は静岡藩の権大参事を経て、明治天皇の侍従という大役を拝命します。天皇の側近として、彼は単に行事をこなすだけでなく、書や禅の師として、若き明治天皇の人間形成に大きな影響を与えました。

ある時、酒に酔った勢いで天皇の前に出てしまった役人がいました。激怒した天皇が刀で斬り捨てようとしたその時、鉄舟は身を挺して間に割って入り、静かに天皇を諌めたといいます。彼は、新しい時代の君主である天皇に、旧き良き武士の道徳と、人としての在り方を身をもって教えたのです。また、彼は戊辰戦争で亡くなった人々を、敵味方の区別なく弔うため、私財を投じて東京・谷中に「全生庵」を建立しました。これも、全ての人間を分け隔てなく見る、彼の大きな人間性を示す逸話です。

山岡鉄舟の名言集:肚を据えて生きるための哲学

「事をなすの要は、誠の一字にあり」

(物事を成し遂げる上で最も大切なことは、「誠実さ」という一文字に尽きる。)
西郷との命懸けの談判をはじめ、彼の人生のあらゆる局面で貫かれた信念です。小手先の策や弁舌ではなく、真心から発せられた言葉と行動だけが、人の心を動かし、事を成し遂げることができるのだという、彼の哲学が凝縮されています。

「晴れてよし 曇りてもよし 富士の山 もとの姿は 変わらざりけり」

胃がんで死期を悟った鉄舟が、死の直前に筆を取り、遺した辞世の句です。晴れていても、曇っていても、富士山の本来の姿は変わることがない。それと同じように、人の生死や状況の変化に動じることなく、自分の本質は変わらないのだという、悟りの境地が示されています。彼はこの句を詠んだ後、座禅を組んだまま、静かに息を引き取ったと伝えられています。

「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ、といった始末に困る人間でなければ、国家の大業は成し遂げられない」

これは西郷隆盛の言葉として有名ですが、鉄舟もまた、この言葉を体現した人物でした。私利私欲を完全に捨て去った人間だけが、国家や社会といった、自分より大きなもののために尽くすことができる。彼の無欲で豪胆な生き様そのものを表す言葉です。

まとめ:私心を捨て、誠に生きた「最後の武士」

山岡鉄舟の生涯は、まさに「無刀流」そのものでした。彼は、力ずくで敵をねじ伏せるのではなく、自らの誠意と人格、そして死をも恐れない覚悟という「心の刀」で、国家的な危機を乗り越えました。彼の前では、敵も味方も、身分も立場も関係ありませんでした。ただ、一人の人間としての「誠」が問われるだけだったのです。

旧時代の武士でありながら、その精神性は、新しい時代の日本が最も必要とした道徳でした。私心を捨て、公のために生き、敵さえも包み込む大きな器。山岡鉄舟は、武士道という花の、最も美しく、そして最も力強い最後の輝きを放った、「本物の日本人」でした。
この記事を読んでいただきありがとうございました。

タイトルとURLをコピーしました