幕末という激動の時代、多くの武士が「義」に殉じ、あるいは新時代の波に乗り切れず消えていきました。しかし、その両極を経験し、さらにその先を生きた男がいます。その名は、榎本武揚(えのもと たけあき)。徳川幕府の海軍副総裁として最後まで新政府軍に抵抗し、箱館・五稜郭の地に日本史上初の「共和国」を樹立した「逆賊」。そしてその数年後には、敵であったはずの明治新政府の閣僚として、日本の近代化、特に外交分野で獅子奮迅の働きを見せた稀代の傑物です。
彼はなぜ、旧幕臣の誇りをかけて最後まで戦い抜いたのか。そして、なぜ「朝敵」の汚名を着ながらも、新時代に不可欠な人材として復活を遂げることができたのか。この記事では、敗者でありながら勝者以上に日本の未来を築き、武士の魂と国際的な知性を併せ持った男、榎本武揚の波乱に満ちた生涯と、その行動哲学が凝縮された名言の数々を深く掘り下げていきます。
榎本武揚とは:武士の魂を持つ、国際派テクノクラート
榎本武揚の人物像を理解する上で欠かせないのが、彼が単なる武士ではなく、幕臣の中でも群を抜く知識と技術を持つ「テクノクラート(高度技術官僚)」であったという事実です。彼は昌平坂学問所で儒学を修めた後、長崎海軍伝習所で最新の航海術や科学技術を学び、その才能を認められて幕府派遣留学生としてオランダへ渡ります。
この5年間に及ぶヨーロッパ留学が、彼の運命を決定づけました。彼は蒸気機関や造船学、砲術といった軍事技術はもちろんのこと、化学、物理学、そして何より重要となる「国際法」を貪欲に吸収します。4ヶ国語を操り、欧米列強の思想や社会制度を肌で感じた経験は、彼に「世界の中の日本」という広い視野を与えました。帰国後、最新鋭の軍艦「開陽丸」の艦長、そして海軍副総裁という要職に就いた彼は、もはや旧態依然とした幕府の枠に収まる器ではなかったのです。彼の行動原理は、武士としての「徳川家への忠義」と、国際人としての「法と論理に基づく現実主義」という、二つの柱によって支えられていました。
蝦夷共和国の夢:武士の誇りをかけた「最後の建国」
戊辰戦争が勃発し、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗北。江戸城が無血開城されると、徳川家の命運は風前の灯となります。新政府は幕府が保有する軍艦の引き渡しを要求。しかし、榎本はこれに断固として抵抗します。
江戸脱出の決意
彼の抵抗は、単なる負け惜しみではありませんでした。路頭に迷うであろう多くの幕臣たちの生活を守り、彼らが武士としての誇りを失わずに生きられる場所を作ること。そして、徳川家が将来再び政治の舞台に復帰するための力を温存すること。それが彼の目的でした。慶応4年(1868年)8月、榎本は土方歳三ら旧幕府軍の将兵と共に、開陽丸をはじめとする8隻の艦隊を率いて江戸湾を脱出。目指すは、未開の地・蝦夷でした。
日本初の「共和国」樹立
蝦夷地に上陸した榎本軍は、箱館の五稜郭を占領し、松前藩を攻略。蝦夷全土を平定します。そして同年12月、彼は世界史的にも驚くべき行動に出ます。いわゆる「蝦夷共和国」の樹立です。これは、武士による封建的な政権ではなく、人々の投票によって為政者を選ぶ「公選」という、当時としては画期的な方法で組織されました。
入札(選挙)の結果、榎本武揚は圧倒的な支持を得て「総裁」に就任。これは、彼がオランダで学んだ国際法に基づき、この政権が正当な「交戦団体」であることを諸外国に認めさせ、新政府と対等な立場で交渉するための、極めて戦略的な一手でした。彼は、諸外国の領事団に対し、「これは徳川家の私的な反乱ではなく、公的な政権である」と宣言し、イギリスとフランスから事実上の承認(中立宣言)を取り付けることに成功します。武力だけでなく、法と外交を駆使して戦おうとした彼の姿は、旧時代の武士とは一線を画すものでした。
五稜郭の攻防と、未来へ託した一冊の本
しかし、圧倒的な物量で迫る新政府軍の前に、蝦夷共和国の夢は長くは続きませんでした。最新鋭の軍艦「甲鉄」を擁する新政府海軍の前に制海権を奪われ、箱館湾海戦で敗北。五稜郭に追い詰められた旧幕府軍は、次々と仲間を失い、ついに降伏を決断します。
降伏前夜、榎本は自決を覚悟します。しかし、部下たちに諭され、生き延びて日本の未来に尽くす道を選びました。そして、降伏の交渉にやってきた敵将・黒田清隆に対し、一冊の本を差し出します。それは、彼がオランダ留学中に肌身離さず持ち歩き、オランダ語の注釈を書き込んだ「海律全書」―国際法典でした。
「この本は、これからの日本の航海と外交に必ず役立つはずだ。どうか、これを新政府で役立ててほしい」
自らの命よりも、国の未来を案じたこの行動は、敵将・黒田の心を激しく揺さぶりました。一人の武士として、そして国際人としての榎本の器の大きさに感銘を受けた黒田は、彼の助命のために奔走することを固く誓ったのです。
新時代への華麗なる転身:「逆賊」から日本の「顔」へ
箱館戦争の首謀者として投獄された榎本でしたが、死罪は免れないというのが衆目の一致でした。しかし、彼の卓越した才能を惜しむ声が、新政府内部からも上がり始めます。特に、彼の器量に惚れ込んだ黒田清隆は「榎本を殺すなら、まず私を殺せ」とまで言って、必死に助命を嘆願しました。
その結果、榎本は特赦によって解放され、北海道開拓使として新政府に出仕。ここから、彼の第二の人生が始まります。
外交官としての栄光:樺太・千島交換条約
榎本の知識と国際感覚が最も発揮されたのが、外交の舞台でした。明治7年(1874年)、彼は駐露特命全権公使としてロシアに渡ります。当時の日本にとって最大の懸案は、ロシアとの国境が定まらない樺太(サハリン)の問題でした。この重大な交渉を任された榎本は、留学時代に培った語学力と国際法の知識、そして粘り強い交渉術を駆使し、翌年、「樺太・千島交換条約」を締結します。
これは、樺太全島をロシア領とする代わりに、千島列島(クリル諸島)のすべてを日本領とするという内容でした。武力衝突の危険を回避し、平和的な外交交渉によって国境を画定したこの条約は、日本の近代外交史における金字塔とされています。まさに、敵国であった日本のために、かつての逆賊が歴史的な大功績を挙げた瞬間でした。
多彩な大臣歴任と教育への情熱
その後も、榎本の活躍は留まるところを知りません。日本初の「逓信大臣」(郵便や通信を管轄)に就任し、通信網の整備に尽力。さらに、文部大臣、外務大臣、農商務大臣などを歴任し、その万能ぶりを発揮しました。また、彼は教育にも深い情熱を注ぎ、後の東京農業大学の前身となる「徳川育英会育英黌」を設立します。これは、旧幕臣の子弟たちが新しい時代を生き抜くための学問を身につけることを目的としたものでした。最後まで、かつての仲間たちへの情を忘れない彼らしい事業でした。
榎本武揚の名言集:未来を見据えたリアリストの哲学
「学びてのち足らざるを知る」
(学ぶことによってはじめて、自分に何が足りないのかを知ることができる。)
これは、彼の生涯を貫く学習意欲と謙虚さを示す言葉です。オランダ留学で世界の広さを知り、敗北によって時代の変化を学び、そして新政府では新しい国家建設を学んだ。常に学び続ける姿勢こそが、彼を時代遅れの武士ではなく、未来を創る指導者へと成長させたのです。
「冒険は最良の師なり」
彼の人生そのものが、まさに「冒険」でした。オランダへの留学、幕府艦隊を率いての脱出、蝦夷共和国の建国、そして新政府での活躍。前例のない困難に臆することなく飛び込んでいく行動力こそが、彼に誰にも真似できない経験と知識をもたらしました。
「人為の階級こそ差はあれども、その教育に対するに至りては同じく共に責任を負ふものなり。同じ釜の飯を食ふものなり」
身分や階級に関係なく、教育を受ける機会は平等であるべきだという、彼の信念が込められた言葉です。蝦夷共和国での公選や、育英黌の設立にも、この思想は色濃く反映されています。
まとめ:旧時代の誇りを胸に、新時代を切り拓いた不屈の航海者
榎本武揚の生涯は、まさに激しい嵐の中を航海する船のようでした。徳川幕府という巨大な船の沈没に際し、彼は旧幕臣という「乗組員」と共に「蝦夷共和国」という名の新しい船を造り、荒波に乗り出しました。その船は志半ばで沈みましたが、船長であった榎本は生き延び、今度は「日本」という新しい国家の航海士として、再び羅針盤を握ったのです。
彼は、旧時代の敗者でありながら、誰よりも新時代の建設に貢献した稀有な人物です。武士としての意地と誇りを貫き通しながらも、過去に固執することなく、自らの知識と能力を未来のために捧げました。その生き様は、変化を恐れず、学び続け、そして自らの信念に基づいて行動することの重要性を、私たちに強く教えてくれます。榎本武揚は、単なる「最後のサムライ」ではありません。彼は、日本の未来という大海原を切り拓いた、不屈の精神を持つ偉大な「航海者」でした。
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