仮初めの雲隠れ、惜しむは有明の月 ~大嶋照屋、儚さを見つめる最期の歌~

戦国武将 辞世の句

戦国時代の丹波国に、松永久秀という強大な敵に立ち向かい、潔く散っていった武将がいました。大嶋照屋(おおしま てるいえ)。先に紹介した大嶋澄月(ちょうげつ)と同一人物、あるいは親子や兄弟といった極めて近しい関係にあった人物と考えられています。記録は多くありませんが、最期に遺したとされる辞世の句は、死を達観しながらも、そこに滲む哀愁が深く心に残ります。

一時的に月が雲に隠れるように、自らの死もまた仮初めのこと。しかし、それでも消えゆくものを惜しむのが人の常なのだ――。敗北の淵で、照屋が見つめたものとは何だったのでしょうか。

仮初めの雲隠れとは思へ共 惜しむ習ひそ在明の月

(かりそめの くもがくれとは おもえども おしむならいそ ありあけのつき)

松永に抗い、散った丹波の武士:大嶋照屋

大嶋照屋は、戦国時代の丹波国(現在の京都府中部・兵庫県東部)に勢力を持った国人領主でした。同一人物とされる大嶋澄月(鬼頭掃部助澄月)と同様に、詳しい系譜や具体的な事績については不明な点が多いものの、丹波の戦国大名・波多野(はたの)氏に属するなどして、地域の安寧に努めていた武士であったと考えられます。

照屋が生きた永禄年間(1558年~1570年)は、畿内(近畿地方)を中心に下剋上の嵐が吹き荒れた時代でした。中でも、松永久秀は、主家である三好家を凌駕する力を持ち、時には将軍をも操ろうとするなど、その権勢は並ぶものがありませんでした。「梟雄」と評される松永久秀が丹波に侵攻してきた際、大嶋照屋はその進路に立ちはだかります。

照屋は居城に籠もり、松永軍の猛攻に対して果敢に抵抗したと伝えられます。しかし、戦国時代屈指の策略家であり、強大な軍事力を擁する松永久秀の前に、地方の国人領主である照屋が長く持ちこたえることは困難でした。永禄8年(1565年)、奮戦むなしく城は陥落し、大嶋照屋は武士としての誇りを胸に、自刃して果てました。歴史に名を大きく残すことはなかったかもしれませんが、強大な力に屈することなく散ったその最期は、戦国武士の意地を示すものでした。

辞世の句に込められた心境:達観と惜別の情

敗北し、自らの命を絶つという極限状況で、大嶋照屋が遺したとされる句、「仮初めの雲隠れとは思へ共 惜しむ習ひそ在明の月」。

「私のこの死は、ほんの一時的に月が雲に隠れるようなもの(=仮初めの雲隠れ)だと(理性では)思うけれども、やはり、夜明けの空に白く消え残る月(=有明の月)のように、儚く消えゆくものを惜しむのが、この世の習わしなのだなあ」。

前半の「仮初めの雲隠れ」には、死を永遠の終わりではなく、一時的な現象として捉えようとする、達観した心境がうかがえます。これは、大嶋澄月の辞世とされる「澄む月の暫し雲には隠るとも…」にも通じる、冷静な自己認識と言えるでしょう。自らの死を、自然現象である月の満ち欠けや雲隠れに例えることで、個人的な悲劇を超越しようとしているかのようです。

しかし、後半の「惜しむ習ひそ在明の月」に、この句の深い情感が込められています。「有明の月」は、夜明けの光の中に儚く消えていく運命にある、美しくも物悲しい存在の象徴です。照屋は、自らの消えゆく命、あるいは失われる若さや未来を、この有明の月に重ね合わせているのではないでしょうか。そして、「惜しむ習ひそ(惜しむのが世の習いだ)」という言葉には、死を達観しようとする理性とは裏腹に、やはり込み上げてくる、自らの命への、あるいは自分を惜しんでくれるであろう家族や家臣への、静かで抑えきれない感傷、惜別の情が滲み出ているようです。(一部には、これを「(私の死を)惜しむものではないぞ」という周囲への戒めと解釈する向きもありますが、句全体の流れからは詠嘆と捉える方が自然に感じられます。)

澄月の句が「己が光は必ず照らす」という力強い自己肯定と未来への信念を示したのに対し、照屋の句は、死を受け入れつつも、消えゆくものの儚さとそれを惜しむ人の心の機微に静かに触れ、より深く哀愁を帯びた無常観を漂わせています。

大嶋照屋の辞世の句は、人生の終焉や大切な人との別れといった普遍的なテーマについて、現代を生きる私たちに静かに語りかけます。

  • 死生観と受容: 死を一時的な「雲隠れ」と捉える達観。それは、死への過度な恐怖を和らげ、人生の終わりを穏やかに受け入れるための、一つの心の持ち方かもしれません。私たちは自らの、あるいは大切な人の「死」とどう向き合うか、考えるきっかけを与えてくれます。
  • 儚さの中の美意識: 夜明けと共に消えゆく「有明の月」に自らの命を重ねる感性は、物事の儚さの中にこそ存在する美しさや価値を見出す、日本的な美意識に通じます。永遠でないからこそ、一瞬一瞬の輝きや存在そのものが尊いのだと感じさせます。
  • 惜しむ心、惜しまれる心: どれほど達観しようとしても、別れを惜しむ気持ち、悲しみは人間として自然な感情です。照屋の句は、そうした人間的な感情を否定するのではなく、「世の習い」として静かに受け止めています。誰かを失う悲しみ、そして誰かに惜しまれる存在であることの温かさや尊さを感じさせます。
  • 冷静な自己観察: 極限状況にあっても、自らの死や、それに対する人々の感情を「有明の月」や「惜しむ習い」といった言葉で客観的に捉えようとする姿勢は、冷静な自己観察能力を示しています。感情に飲み込まれず、状況や自己の内面を見つめることの重要性。

松永久秀という強大な敵に敗れ、若くして散ったとされる大嶋照屋(澄月)。その辞世の句は、死を冷静に見つめる達観と、消えゆくものへの尽きせぬ哀惜の情が溶け合った、深く静かな無常観を湛えています。有明の月のように儚くも、心に残る光を放つ言葉として、私たちの胸に響くのではないでしょうか。

この記事を読んでいただきありがとうございました。

コメント

タイトルとURLをコピーしました