忠義一筋、思い残すは君の御恩 ~福島正則、不屈の武士魂~

戦国武将 辞世の句

豊臣秀吉子飼いの猛将として、その名を戦国の世に轟かせた福島正則。賤ヶ岳の戦いでは、「七本槍」の筆頭として抜群の武功を挙げ、秀吉の天下取りを支えました。一本気で勇猛果敢、まさに戦国武士を象徴するような人物です。

秀吉亡き後は、時代の大きなうねりの中で翻弄され、関ヶ原の戦いでは東軍(徳川方)に属して活躍するも、江戸時代には改易(領地没収)という不遇の晩年を送ることになります。そんな波乱の生涯を閉じるにあたり、福島正則が遺したとされる辞世の句は、その武骨な生き様を映し出すかのように、真っ直ぐな忠義の心に満ちています。

武士と生れ 忠義一筋 思ひ残すは 君の御恩

(もののふとうまれ ちゅうぎひとすじ おもいのこすは きみのごおん)

賤ヶ岳の勇将から広島大名へ、そして改易へ:福島正則の生涯

福島正則は、尾張国(現在の愛知県あま市)に生まれ、母が豊臣秀吉の叔母であった縁から、早くから秀吉に仕えました。加藤清正らと共に、秀吉子飼いの武将として育てられ、数々の戦でその勇猛さを発揮します。幼少の頃から秀吉の小姓として仕え、まさに家族同然の間柄でした。

特に、秀吉の後継者争いとなった賤ヶ岳の戦いでは、一番槍の功名を挙げ、「賤ヶ岳の七本槍」の中でも筆頭格として称賛され、大きな領地を与えられました。この戦いでの活躍は、正則の名を一躍高め、豊臣家中の有力武将としての地位を確立させます。その後も、小牧・長久手の戦いや九州平定、小田原征伐、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)など、秀吉の主要な合戦には常に従軍し、武功を重ねていきます。秀吉政権下では、尾張清洲城主となり、大きな力を持つに至りました。

しかし、秀吉が亡くなると、石田三成ら文治派との対立が表面化し、正則は加藤清正らと共に武断派の中心人物となります。この対立が、関ヶ原の戦いへと繋がっていきます。関ヶ原では、徳川家康率いる東軍の先鋒として奮戦し、東軍勝利に大きく貢献。その功により、安芸(広島県)・備後(広島県東部)49万8千石の大々名、広島藩の初代藩主となりました。名実ともに関ヶ原の最大の功労者の一人でした。

ところが、江戸幕府が開かれると、豊臣恩顧の大名であった正則への風当たりは強くなります。元和5年(1619年)、台風で破損した広島城を幕府に無断で修築したことを咎められ、武家諸法度違反として、安芸・備後の領地を没収されてしまいます。代わりに与えられたのは、信濃国高井野(現在の長野県高山村)4万5千石(後に2万5千石に減封)でした。大幅な減封であり、事実上の左遷でした。失意の中、正則は信濃の地でその生涯を終えました。大坂の陣で豊臣家が滅亡した後、豊臣恩顧の有力大名を排除しようとする幕府の意図があったとも言われています。

辞世の句に込められた心境:「忠義一筋」と「君の御恩」

広島49万石の大名から、信濃2万5千石へ。栄光と挫折を味わった福島正則が最期に残した言葉、「武士と生れ 忠義一筋 思ひ残すは 君の御恩」。

「武士としてこの世に生まれ、ただひたすらに忠義の道を歩んできた。もし心に思い残すことがあるとすれば、それは、我が君(=豊臣秀吉公)から受けた大恩に、十分にお報いすることができなかったことだ」。

この句には、正則の生き方の核が凝縮されています。それは、揺るぎない「武士としての誇り」と「主君への忠義」です。改易され、不遇な晩年を送ったとしても、その根本精神は少しも揺らがなかったことが伝わってきます。生涯を捧げた忠義の対象は、最期まで秀吉ただ一人だったのです。

「君の御恩」とは、言うまでもなく、自分をゼロから取り立て、育て、大名にまで引き上げてくれた豊臣秀吉への感謝の念でしょう。秀吉への忠誠心は、正則の行動原理の根幹でした。関ヶ原で東軍に付いたことさえ、豊臣家を思ってのことだった、あるいは三成憎しの感情からだったなど諸説ありますが、結果的に豊臣家滅亡に繋がったことへの悔恨や、秀吉への申し訳なさが、「思ひ残す」という言葉になったのかもしれません。秀吉から受けた恩に報いることができなかった、という無念の思いが滲みます。

江戸幕府による改易という理不尽な仕打ちに対する恨み言ではなく、最後まで育ての親である秀吉への恩義を口にしたところに、福島正則の武骨ながらも純粋な人柄が偲ばれます。

現代を生きる私たちへの示唆

福島正則の生き様と辞世の句は、損得勘

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