戦国の世、陸だけでなく、広大な海をも舞台に勇名を馳せた武将がいました。「海賊大名」の異名を持つ、九鬼嘉隆。嘉隆は卓越した水軍指揮能力で、織田信長、豊臣秀吉という二人の天下人に仕え、その覇業を大海原から支えました。しかし、時代の大きなうねりは、この海の勇将をも翻弄します。
嘉隆の最期は、関ヶ原の戦いにおける西軍への加担、そして敗北の末の自刃という、悲劇的なものでした。死を前に、彼が遺した辞世の句は、共に戦い、生きた者たちへの深い想いに満ちています。
「我と来て 共に朝夕 馴れにしは 別るとも思はざりしものを」
(われときて ともにあさゆう なれにしは わかるともおもわざりしものを)
海を制した男:九鬼嘉隆の生涯
九鬼嘉隆は、もともと伊勢志摩の在地領主でしたが、織田信長の才能にいち早く着目し、その家臣となります。信長にとって、強力な水軍の確保は、伊勢湾の制圧や、当時最大の抵抗勢力であった石山本願寺を攻略する上で不可欠でした。嘉隆は、その期待に応え、水軍を率いて数々の海戦で活躍します。
特に有名なのが、第二次木津川口の戦いにおける「鉄甲船(てっこうせん)」の投入です。鉄で装甲された巨大な軍船は、本願寺方の焙烙火矢(ほうろくひや:火薬を詰めた陶器を投げつける武器)をものともせず、戦局を大きく変えたと言われています。この勝利により、嘉隆は信長の信頼を不動のものとし、「海賊大名」としての地位を確立しました。
信長の死後は豊臣秀吉に仕え、その水軍の中核として、小牧・長久手の戦いや九州平定、小田原征伐、そして朝鮮出兵(文禄・慶長の役)においても、海路の確保や兵員・物資の輸送、海戦で重要な役割を果たしました。まさに、戦国時代の海を知り尽くした、稀代の水軍指揮官だったのです。
辞世の句に滲む、家臣への深い情愛
しかし、秀吉の死後、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、嘉隆の運命は暗転します。嘉隆は石田三成率いる西軍に与しましたが、息子の九鬼守隆は徳川家康率いる東軍に付き、親子で敵味方に分かれるという悲劇に見舞われます。戦いは東軍の圧倒的な勝利に終わり、西軍に付いた嘉隆は追われる身となりました。
息子・守隆は父の助命を家康に嘆願し、認められたものの、その知らせが届く前に、嘉隆は家臣の裏切りを疑い、自らの命を絶ったとも、あるいは東軍勝利という現実を受け入れられなかったとも言われています。
その最期に詠まれたのが、「我と来て 共に朝夕 馴れにしは 別るとも思はざりしものを」という句です。
「私と共にやって来て、朝も夕も慣れ親しんできたお前たち(家臣たち)と、このように別れることになるとは思ってもいなかった…」。
そこには、戦の勝敗や自らの運命に対する無念さよりも、長年苦楽を共にし、家族同然に過ごしてきた家臣たちとの突然の別れを嘆き、惜しむ、人間・九鬼嘉隆の偽らざる心が痛いほど伝わってきます。戦場という死線の上で結ばれた主従の絆は、単なる上下関係を超え、深い情愛で結ばれていたのでしょう。その温かな日々が終わってしまうことへの、深い哀惜が込められているのです。
時代の激流に翻弄されながらも、最期まで人としての情を失わなかった九鬼嘉隆の生き様と辞世の句は、現代を生きる私たちにも、大切なことを教えてくれます。
- 人と人との絆の大切さ: 嘉隆が家臣たちを想ったように、困難な状況や厳しい環境の中にあっても、共に支え合い、励まし合える仲間の存在は、何物にも代えがたい宝物です。人間関係が希薄になりがちと言われる現代だからこそ、身近な人々との繋がりを大切にする心を忘れてはなりません。
- 信念と感謝の心: 嘉隆は、結果的に敗者となりましたが、自らの判断で西軍に与しました。その選択が正しかったかは別として、自分の信じる道を選んだと言えます。同時に、最期には共に歩んだ人々への感謝と愛情を示しました。たとえどのような状況にあっても、自分の軸を持ち、関わってきた人々への感謝の気持ちを忘れない姿勢は、現代においても輝きを失いません。
- 別れの中に宿る想い: 人生には、予期せぬ別れが訪れることもあります。嘉隆の句は、別れの悲しみと共に、それまで共に過ごした時間のかけがえのなさを教えてくれます。大切な人との時間を慈しみ、感謝の気持ちを伝えること。その大切さを、改めて心に刻ませてくれるようです。
九鬼嘉隆の辞世の句は、戦国の海の覇者の、意外なほどに人間味あふれる、そして切ない最後の言葉です。それは、激動の時代を生きた武将が遺した、時を超えた私たちへの温かなメッセージなのかもしれません。
この記事を読んでいただきありがとうございました。
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