烈公・徳川斉昭の名言|幕末の尊王攘夷を主導した水戸の熱き魂

幕末の人物

徳川斉昭(なりあき)。徳川御三家の一つ、水戸藩の第九代藩主。彼は、徳川の一門でありながら、誰よりも幕府の在り方を憂い、天皇を尊ぶ「尊王」の心を説き、そして異国を打ち払うべしという「攘夷」の炎を燃やした、幕末で最も情熱的で、最も矛盾をはらんだ人物でした。その激しい気性から、後世「烈公」と諡(おくりな)されます。この記事では、最後の将軍・徳川慶喜の父としても知られる、この熱き魂の君主・徳川斉昭の生涯と、その哲学が凝縮された名言を深く掘り下げていきます。

徳川斉昭とは:水戸学に生きた「烈公」

徳川斉昭を理解する上で欠かせないのが、水戸藩に古くから伝わる学問「水戸学」です。水戸学は、徳川の一門でありながら、幕府よりも天皇の権威を重んじるという、極めて特殊な思想体系を持っていました。斉昭はこの水戸学の熱心な信奉者であり、その思想を藩政、そして国政に反映させようと生涯を捧げました。彼は、強硬な攘夷論者として知られますが、その根底にあったのは、天皇を中心とする神国日本を、異国の脅威から断固として守り抜くという、純粋で燃えるような愛国心でした。

将軍家の御三家、朝廷を尊ぶ

1800年、水戸藩主の三男として生まれた斉昭は、幼い頃から水戸学を深く学び、その才能を嘱望されていました。しかし、三男という立場から、当初は藩主の座とは無縁の存在でした。兄である藩主が跡継ぎなく病没したことで、彼に家督相続の機会が巡ってきます。しかし、藩内の保守的な家老たち(門閥派)は、幕府との関係を強化するため、将軍家からの養子を迎えようと画策。斉昭が藩主の座に就くまでには、この門閥派との激しい政治闘争に勝利する必要がありました。彼の治世は、まさにこの藩内対立との戦いに終始したと言えます。

藩政改革にみる烈公の哲学

三十歳にしてようやく藩主となった斉昭は、堰を切ったように、自らの理想とする藩政改革を断行します。その改革の随所に、彼の烈公たる所以が表れています。

人材育成の拠点「弘道館」

藩主就任後、彼が最初に取り組んだ大きな事業の一つが、藩校「弘道館」の創立でした。これは、単なる学問所ではありません。文武両道を掲げ、水戸学の精神を藩士たちに徹底的に叩き込み、身分に関係なく有能な人材を育成・登用することで、藩の凝り固まった門閥政治を打破しようという、彼の強い意志の表れでした。

徹底した質素倹約

斉昭は、財政改革のために、自ら率先して質素倹約を徹底しました。藩主就任時、あまりに豪華な食事が用意されたことに驚き、「今まで通りの食事でよい」と改めさせたり、お気に入りの側室が新しい衣装をねだった際には、激怒して二度と会わなかったという逸話も残っています。また、先代藩主の時代に将軍家から下賜されていた年額一万両も、「分不相応である」として返上。国家の危機に際して、為政者が贅沢にふけることを、彼は決して許さなかったのです。

矛盾をはらんだ軍制改革

斉昭の性格を最もよく表しているのが、軍制改革です。彼は、異人を激しく嫌う攘夷論者でありながら、外国の優れた技術を導入することには何の躊躇もありませんでした。オランダ式の軍制を取り入れ、軍備を近代化するために大砲の鋳造を計画します。しかし、財政に余裕のない水戸藩には、その材料となる青銅を調達する資金がありません。そこで彼が取った手段は、神道を尊ぶ水戸学の思想に基づき、藩内の寺院から梵鐘や仏像を強制的に没収し、それらを溶かして大砲の材料にするという、前代未聞の「廃仏毀釈」でした。この過激な政策は、彼の目的のためには手段を選ばない、烈公たる所以を物語っています。

幕政への参与と井伊直弼との対決

斉昭の藩政改革は幕府からも高く評価され、ペリー来航後は、海防問題の責任者として幕政に参与するようになります。しかし、彼の強硬すぎる攘夷論は、幕府内部で新たな対立を生むことになりました。

将軍継嗣問題:息子・慶喜を巡る政争

病弱で跡継ぎのいなかった十三代将軍・徳川家定の後継者を巡り、幕府は二つに割れます。斉昭は、自らの七男であり、一橋家の養子となっていた一橋慶喜を、その英明さから次期将軍に強く推しました。しかし、幕府の権威維持を最優先する譜代大名の筆頭・井伊直弼は、紀州藩主・徳川慶福を擁立。これは、国難にどう立ち向かうかという、日本の進路を巡る根本的な路線対立でした。

安政の大獄と失脚

この政争は、井伊直弼の勝利に終わります。大老に就任した井伊は、反対派を弾圧する「安政の大獄」を開始。斉昭もまた、その最大の標的となり、水戸での永蟄居(終身禁固)を命じられてしまいます。これにより、斉昭は政治の表舞台から完全に失脚。水戸藩もまた、国政への影響力を大きく失いました。

水戸藩の崩壊と斉昭の死

斉昭の失脚は、水戸藩の悲劇の始まりでした。藩主という精神的支柱を失った急進的な藩士たちは暴走し、1860年、大老・井伊直弼を江戸城桜田門外で暗殺(桜田門外の変)。この事件により、水戸藩は幕府から「反逆の藩」と見なされ、藩内の対立はさらに激化。有能な人材はことごとく粛清や内乱で命を落とし、かつての名門は内部から崩壊していきました。そして、井伊直弼の死からわずか半年後、斉昭もまた、失意のうちに病でこの世を去ります。享年61。彼の死により、幕末の動乱を導くことのできる人材は、水戸藩から一人もいなくなってしまったのです。後に最後の将軍となる、息子の徳川慶喜を除いては。

徳川斉昭の名言

彼の言葉は多くは残されていませんが、残された一つの名言は、彼の意外な一面を伝えています。

「何事にても、我より先なる者あらば、聴くことを恥じず」

(現代語訳)
どんな事柄であっても、自分より優れている者がいるならば、その者から教えを請うことを、決して恥ずかしいと思ってはならない。

この言葉は、強硬で頑固一徹という斉昭のイメージとは裏腹の、知的な謙虚さを示しています。彼は、自らの信念(尊王攘夷)においては一切の妥協を許しませんでした。しかし、その目的を達成するための「技術」や「知識」においては、相手が誰であろうと、たとえそれが憎むべき異人(オランダ人)であろうと、学ぶべき点があれば素直に耳を傾ける度量を持っていました。彼の軍制改革における先進性は、この柔軟な姿勢から生まれたものだったのです。

まとめ:幕末に尊王攘夷の火を灯した男

徳川斉昭の生涯は、闘争の連続でした。藩内では保守派と、国政では開国派と、そして最後は井伊直弼と。彼はその戦いの多くに敗れ、失意のうちに亡くなりました。彼が心血を注いだ水戸藩もまた、内乱によって自壊してしまいます。しかし、彼が掲げた「尊王攘夷」の旗は、彼の死後、水戸藩の垣根を越えて全国の志士たちに受け継がれ、やがて幕府を倒す巨大なうねりとなっていきました。皮肉なことに、徳川の一門であった彼こそが、徳川幕府を終わらせるイデオロギーを、日本中に広めた最大の功労者だったのかもしれません。徳川斉昭は、まさにその激しい生き様をもって、幕末という時代の火蓋を切った「烈公」でした。

この記事を読んでいただきありがとうございました。

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