徳川斉昭の名言です。

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幕末の人物

藩主としては、最も過激な攘夷思想の持ち主でした。道半ばで没しますが、その思想は幕末全体に影響を与えています。

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誕生から家督相続まで

1800年、水戸藩主徳川治紀の三男として生まれました。水戸藩には水戸学があり、将軍家の一門でありながら、幕府より朝廷を重んじる珍しい風潮がありました。斉昭は幼少から水戸学をよく学び、将来を期待されました。
しかし、三男という位置は藩主とは遠いものでした。長兄は次期藩主であり、次兄と弟は松平家に養子に出ています。斉昭だけは水戸に留まりながらも、特にすることもなく過ごしていました。斉昭に出番が回ってくるのは、藩主となった長兄が病没してからです。そのときには、すでに三十歳になっていました。
斉昭が後継者となるまでには混乱があり、将軍家から養子をもらおうとする動きもありました。これは門閥派と呼ばれる派閥による活動だったのですが、斉昭の治世は門閥派との戦いから始まり、門閥派との戦いに終わったとも言えます。

藩政改革に見られる人間性

藩主となってまもなく、講道館という藩校を創立しました。藩士達に広く学問と武芸を教え、人材の育成に努めました。一部の家柄の者たちに独占されやすい政治というものを、能力のある新しい人材に開き、実力主義へと舵を切る傾向は、福井藩を始め幕末では広く見られます。
農地の検分など、財政改革も行い、質素倹約を旨として臣下にも言い聞かせました。先代には将軍家の姫が嫁いでおり、そのために毎年一万両が下賜されていたのですが、これを返上することとしました。そして、自分たちに与えられている石高の範囲で生活することを目指したのです。
あまり財政には余裕のない水戸藩でしたが、藩主ともなればそれなりの贅沢は許されていたのでしょう。藩主の食事は豪華だったようです。そのため、藩主となったばかりの頃、出された食事の豪勢さに対し、今まで通りの食事を出すようにと指示しています。お気に入りの側室が衣装代を求めた時なども、以後目通りが適わないほどに腹を立てました。
軍制改革にも手をつけており、オランダ式の軍制を取り入れています。強硬な尊王攘夷派として、異人嫌いで徹底していた斉昭ですが、外国の優れたところを取り入れ、外国と対等の立場に立とうと努力することは、早い時期から主張していました。
この過程で装備の充実を図ることになり、大砲も準備することとなりました。水戸学の学び手であった斉昭は神仏分離の思想を持っており、神道は重んじても、仏教には敬意を払いませんでした。そのため、大砲の材料となる青銅を入手するために、寺の鐘や仏像などを接収して溶かしてしまいました。明治時代には廃仏毀釈がおきますが、その思想は一足先に水戸藩で見られるわけです。

幕末における水戸藩

斉昭の政治力は幕府にも高く評価され、幕政改革では手本とされ、また助言者としても求められました。黒船に対抗する意志が強すぎて幕府と折り合いがつかずに、幕政を混乱させる一面もありましたが、斉昭は幕府においても重要な位置にいました。
しかし、独断で開国を進める井伊直弼との政争に敗れ、水戸での蟄居を命じられ、重要な役割を負っていた水戸藩士が処分されることとなり、幕末における水戸藩の影響力は大きく削減されました。水戸藩内部では、斉昭をはじめとする急進的な攘夷派と、家老を中心とするより穏健な門閥派とが争っており、両者の争いで内部から疲弊していき、最終的には急進的藩士が井伊直弼の暗殺に至りました。ここまでで水戸藩の名のある藩士はほとんど全滅し、ただ一人残った斉昭も半年ほどの後に病没したことで、時代の転換期を率いられる人物は一人も残されていなかったのです。
後に最後の将軍となる、息子の徳川慶喜を除いては。

徳川斉昭の名言です。

「何事にても、我より先なる者あらば、聴くことを恥じず」

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